〜Hello-Goodbye&Hello〜
 

 キネマトロンの入電があったのは、メルが秘書室で刺繍を縫っている時のことだった。
 日本からの帰省途中、インド洋上にいるロベリアからのキネマトロン通信は、映像が写らぬほど電波障害が多く、音声も聞き取りにくいものだったが、その通信をシャノワールの秘書室で受けとったメルに必要十分な情報を伝えるだけの役には立った。
 「よく聞きな。隊長は戻らないよ」
 雑音だらけのロベリアがそう言った。その直後に電波状況が悪化したのか、通信は一方的に切れてしまった。だが、その一言だけで十分だった。
 「大神さん・・・・戻ってこないんだ」
 大神は日本で突如巻き起こった騒乱を鎮めるため、日本政府による正式な帰国要請により数ヶ月前から帰省していた。既に大神のリーダーとしての存在は巴里支部内でも確固としたものとなっており、オーク巨樹からの巴里の危機を救った英雄として、また一人の市民として巴里の街並みに受け入れられようとしていた矢先の出来事でもあったので、大神帰省の影響はシャノワールの団員以外にも及んだ。それ故に皆、再び大神が返ってきた時の事を想定し、そしてその事を信じて、大神との未来に対する様々な思いを描いていたのであった。
 エリカとシーはお菓子作り。パティシェを目指していたシーはまだしも、『Missつまみ食い』のエリカが加わってしまっては、全ての工程が終わらぬうちに材料が無くなってしまうかもしれない。小麦粉くらいは残るだろうか。
 花火は書道を習いたいと言っていた。さらに幾つかの武道を志そうとも。日本人でありながら巴里の街しか知らない彼女は、大神との間に祖国との絆をも求めているようだった。
 コクリコとグリシーヌは折り紙を教えてもらうのだと話していた。どうやら折鶴以外の動物を折ってみたいらしい。コクリコとグリシーヌという組み合わせが一見アンバランスにも思えるが、全ての動物を愛するコクリコと、可愛い小動物を愛するグリシーヌの意見であることを考慮すると、頷けてしまう。
 ジャン班長とロベリアはギャンブル三昧。ジャン班長は大神の滞在中に競馬の面白みを伝えられなかった事が余程悔しかったのか、バーでグラスを持つ度にその事を口に出すのだった。ロベリアはロベリアで、彼等のサイフが膨らんで緩みきったところをすかさず・・・・という算段なのだろう。
 その他にも、グリシーヌ邸に仕えるメイド頭のタレブーなどは、今でも『大神に丁度いい仕事があるザマス!』と言いながら本人を探しに来る事もしばしば。花屋のコレットはシャノワールに配達がある度に大神ではないモギリの顔を覗き込んでいくし、パトロールの途中に立ち寄っていくエビアン警部も、大神が日本に帰ってしまったことを知らずにいるのか、必ず「大神君によろしく」という台詞を残していくのだった。
 皆それぞれに大神へ寄せる想いがあり、その想いは今も生きている。
 「・・・・戻ってこないんだ」
 キネマトロンのスイッチを切った後、メルはそう口の中で繰り返しながら、秘書室の書架から一冊のファイルを取り出した。メルはその中の一枚を抜き取り、目を通した。
 『ハロー・グッバイ&ハロー』
 そうタイトル付けられたその書類は、大神が巴里華檄団に再赴任した場合にむけてグラン・マが用意しておいた、シャノワールの特別ミュージカル・レビューの企画書だった。再復帰の歓迎と祝福をかねて、大神を舞台に上げてしまおうと目論んでいたのである。
 
 場所はとある貴族の大屋敷。日本からやってきた若い将校に恋をしたメイドが、彼に会いたい一心で身分を偽り、貴族主催の舞踏会に潜り込む。場違いな雰囲気と不慣れなダンスに彼女は戸惑うのだったが、その様子が逆に将校の目を惹く。数回言葉を交わすうち、将校は俗っぽさの無い彼女の純真な心に魅せられて、二人はその一夜、互いの事を語り合って過ごす。朝になり、将校は身分を偽ったままの彼女と再会を誓って口付けを交わする。だが時と場所を移せば、彼女は所詮一人のメイド。将校はたとえ彼女とすれ違っても気づかぬどころか、声さえかけようとしないのだ。今更訂正するにはあまりにも大きすぎる嘘の大きさに、彼女は後悔を覚えはじめる。互いの胸にはもどかしさばかりが募り、そのまま時は流れた。そしてついに将校が帰国の日を迎えた時、決心した彼女はメイド服のまま将校の前に立つ・・・・・
 
 ・・・・・というのが、このミュージカル・レビューのあらすじだった。中盤までコメディタッチで進むのだが、ラストは一変して情熱的に盛り上がる構成になっている。無論、将校は大神が演じるのだ。
 「これも、無駄になっちゃうのね」
 実現すれば、シャノワールでは初の試みになるミュージカルレビューである。見てみたいと思っていたが、本人が戻ってこないのであれば仕方ない。メルは書類を元に戻し、再び刺繍へと向かった。今日はシーが休暇をとったので、秘書室には自分しかいない。グラン・マも華檄団関係者等との会議に出席しているため、夜まで戻らないだろう。やるべき仕事も無いし、電話番の片手間に刺繍をしていても、支障は無いはずだ。
 
 
 大神が戻らない理由とはなんだろうか?それは分りきった事だった。結婚である。大神は、以前から交際のあった帝國歌劇団の女優と・・・・帝國華檄団の隊員と結ばれたのだ。
 『アイツ、トーキョーに惚れた女を残してるんだってさ』
 オーク巨樹との合戦では副隊長を務めていたロベリアが、ある日ぶらりと立ち寄った秘書室で独り言のように話したのを、メルははっきりと覚えていた。普段あまり話をする機会が無いロベリアが突然秘書室に入ってきたときは驚いたが、多分一番部外者らしい人間に話す方が、彼女の心に都合が良かったのだろう。案外失恋話なんていうものは、身近な人間に聞かせるものではないのかもしれない。別にその相手に選ばれた事を光栄と思えるはずも無いのだが、メルはその日一日ロベリアの言葉が尽きるまで付き合った。
 『それが誰かは知らないけど・・・・・結局アタシはアタシでしかない。来る時が来たら選ばせるさ』
 そう言っていたロベリアだったが、今の心境はどうなのだろう?選ばれなかったら全てを無かった事にするなんて、言うほど簡単ではないはずだ。先の通信が途切れたのも、本当に電波障害の所為だったのだろうか。会話の途中でいたたまれなくなり、通信を切ったのではないだろうか。大体乗船前に連絡出来なかった訳でもないだろうに、何故今更連絡してきたのだろう?彼女は今海の上で何を想っているのだろうか?そこまで考えて、メルの指先が止まった。
 
 (私・・・・)
 
 ロベリアの気持ちは解かる。それは、ただ女としての感情ではなかった。
 
 (私は・・・・・・)
 
 その先が出てこない。
 その先を考えちゃいけない。言ってはいけない。自分の中の誰かが言う。
 
 (私だって・・・・・・)
 
 気づかないふりをしろ。自分に嘘を吐き通せ。
 胸に湧き上がる語気が強くなる。糸を付け替えようとして、震える指先が針を落とした。
 
 (私だって・・・・・あの人の事が・・・・・・・)
 
 もう忘れろ。全ては夢だったんだ。所詮メイドの小娘と将校じゃないか。釣り合いはしない。あのロベリアでさえ叶わなかったんだ。絶対にありえない。ちょっとした間違い・・・・・・見てはいけない夢・・・・・・
 メルは落とした刺繍針を拾おうと、手にしていた刺繍枠を机の上に放り投げた。ガラガラッという音を立て、刺繍枠は机の上の何かにぶつかりながら机の向こう側に落ちていった。しかしメルには、もうそんなことに気を向ける余裕も無かった。スカートが汚れる事も介さずにひざまずき、辺りを見回す。目の前は何も見えず、床に伸ばした自分の手に何かが落ちた。自分が泣いているのが今わかった。
 
 (あの人に好きと言えれば・・・・それさえ言えれば・・・・それが私の夢・・・・・)
 
 ダメだ!
 その時、闇雲に床を探っていた指先に鋭い痛みが走り、メルは腕をすくめた。指先には、落とした刺繍針が深々と刺さっている。息を止めてそれを引き抜くと、血が紅いビーズ玉のように盛り上がって流れ落ちた。血の流れは止めどなく、傷口が激しく痛んだ。涙もまた、同様だった。傷ついてない方の手の甲で何度も目尻を擦り、やっとの思いで立ち上がると、先程放り投げた刺繍枠がメルの目に入った。
 
 白いハンカチ。
 シャノワールのロゴを模した、黒ネコの姿。
 「ICHIRO・O」と、蒼い刺繍。
 
 「どうして・・・・私・・・・私っ・・・・!」
 嗚咽が漏れた。もう、自分の気持ちを無視することなど出来なかった。メルは這うようにして刺繍枠に近づくと、それを胸に抱いた。そしてとうとう抑えきれず、身を振り絞るようにして泣いた。
 「大神さんが好きっ・・・・ずっと・・・・好きだったのにっ・・・・!」
 とめどなく溢れる涙が、過ぎ去った日の記憶を蘇らせる。ある日は秘書室で、またある日はキネマトロンの通信で・・・・様々な映像が瞼の裏を通り過ぎてゆくたび、メルの瞳からは涙が零れ落ちるのだった。どうしてだろう。蘇る大神の声や姿は、はっとするほどに鮮やかなのに。
 
 「メルくんが好きだからだよ」
 
 人に想われる喜びを教えてくれたあの日。私は恋に落ちた。
 
 「ありがとう、メルくん・・・・大切にするよ」

 
 そう言って受け取ってくれたネクタイピン。今でも身に着けているのだろうか。
 
 「そういうメルくんが好きだよ」
 
 ダンスホールの夜。踊った曲さえ覚えていないほど、笑顔が眩しかった。
 
 ありふれた日常。だが自分にとっては、何よりも代え難い美しい日々。
 しかし全ては終わった。もう、終わってしまったのだ。
 「大神さん・・・・!大神さん、大神さんっ・・・・・!」
 誰も居ない秘書室の中、残酷なほど鮮明な思い出に溺れるようにして、メルは泣き続けた。
  
  

 その頃。
 グラン・マことイザベル・ライラックは、自ら自動車のハンドルを握り、しきりに腕時計を気にしながら、シャノワールへの道を急いでいた。
 インド洋上にいるロベリアとの通信から約1時間。何故ロベリアが直接自分に通信してきたのか。何故メルが通信の報告義務を怠っているのか。その理由が合致した時、イザベルは得も言われぬ不安に襲われたのだった。強引に会議を中座し、そして運転手さえ待たずに会議場のポーターから車のキーを受け取ると、素早くイグニッションを回してアクセルを踏み込んだのである。
 メルが大神を慕っていた事については、イザベルもかなり早い時期から気づいていた。もしかしたらメル本人より早く気づいていたのかもしれない。日々の大神との行動で見せるあの娘の、感情を幾重にも包み込んだ慎ましさが、イザベルには時に微笑ましく、時にもどかしくさえ思えた。メルという人間の性格をよく理解していなければ気づく事の出来ないドラマが日々展開される度、イザベルは微かな可能性を心に思い浮かべたものである。メルもまた、同じ可能性を夢見ていた事だろう。しかしメルは自らの恋を恋と呼ぶことさえ拒否するかのように、ひたすらに慎ましく、大神への想いを寄せていた。恋を夢と呼ぶことで、自分の心をせき止めていたようだった。
 しかしその一方で、彼女はその夢を信じていたのだ。
 だが、その可能性はもう許されない。大神は巴里に戻らず、帝都の娘と結ばれてしまった。それがメルにとって、どれほどのショックになるだろうか。
 メルは芯の強い娘だ。しかしそういう娘こそ、大きなショックを受け止めきれず、ポッキリと心を折ってしまう事がある。心を折ってしまうことそのものについては、イザベルはそれほど深刻に考えてはいなかった。そうやって問題を解決しようとする人間も大勢見てきたし、その行為自体は決してネガティブなものではない。その「折れ方」に問題が生じる場合が多いのだ。
 後輪を大きくスライドさせ、イザベルは車をシャノワールの入り口に横付けした。運転席を降りる時、今自分が走ってきた道が歩道であったことに気づいたが、人目の無い事を幸いに、イザベルは先を急いだ。イブニングドレスの裾を上げながら廊下を駆け、メルが居るはずの秘書室へ飛び込んだ。
 ドアを開けた瞬間にメルの姿を確認出来ず、さらに床に散らばっている数滴の血痕にイザベルは背筋を凍らせたが、やがて机の陰でうずくまっているメルの姿を発見した。すぐさま駆け寄ったが、呼吸も正常で指先の出血以外の外傷も無い。どうやら気を失っているだけのようだ。
 イザベルは胸を一まず撫で下ろしたが、すぐに別の不安が心をよぎった。メルの両頬には涙の跡がくっきりと付いている。気を保てなくなるほどの涙を誘う喪失感とは、一体どれ程のものなのだろう?正直、イザベルには想像が付かなかった。
 イザベルはメルの脇の下と膝の裏に腕を入れると、メルの体をそっと持ち上げた。その時メルが息を漏らしたが目を覚まそうとはしなかったので、イザベルはよりしっかりとメルの体を固定すると、机の脇を通り過ぎて支配人室へ入り、常に自分が使用している椅子に座らせた。秘書用にあてがったものよりも背もたれが大きく、両側に肘掛も付いているので、メルの体をいたわるにはこちらの方が都合がいいと思えたからだ。
 「さて。一体どうしたもんかね、この娘は」
 メルの顔を覗き込んだその後でそう呟いたイザベルは、未だ目を開こうとしないメルに背を向けると、ドアの外へと姿を消した。
 イザベルの歩調は普段どおりに戻っていた。会議をすっぽかしたおかげで、時間だけはたっぷりとあるのだ。
 


 「アマレット・・・・アマレット・・・・アマレット・・・・」
 はたして自分がバーに立つなど、何時以来の事だろう?そんなことを思いながら、イザベルはカウンターの奥に整然と並べられているボトルの中から、お目当ての一本を探すのに夢中になっていた。
 「やれやれ、アマレットが欲しいんだけどねぇ」
 普段はのんびりとグラスを傾けるだけの空間も、立場が変わってしまえば未知の世界。バーの主であるジョルジュが、ろくすっぽ銘柄を確認せずにヒョイヒョイと後ろ手で瓶を取っているのは、どうやら精密機械に等しい芸当らしい。結局、イザベルがイタリアン・リキュール「アマレット」を探し当てた頃には、既にかなりの時間が過ぎていた。
 イザベルはアマレットの瓶をひとまず脇に置くと、今度は冷蔵庫からオレンジジュースを取り出した。そしてその中身をコーヒーサイフォンのフラスコの部分に注ぐと、火にかけて静かに暖め始めた。
 「入っておいで」
 イザベルはあえてその方向を見ずに、バーの入り口に立っているメルに声を掛けた。メルは数分前からそこに立ち、カウンターの向こう側で作業しているイザベルの様子を見ていたのだ。傷ついた指先は、バーに入る前にイザベルが手当てを済ませていたおかげで、今は包帯が巻かれている。
 「目が覚めたんだね。まったく、メモを書いておいて良かったよ。すぐに済ませるつもりがこのザマさ」イザベルはカウンターの上にコルクのコースターを置くと、メルをさらに促した「はやくお入りったら」
 メルはやや戸惑った様子を見せたが、やがてはカウンターの席に着いた。テーブルの上に置いた紙切れは、イザベルが言っていたメモなのだろうか。メルはそれを指差しながら、消え入りそうな声で囁いた。
 「『静かで私の好きな場所』・・・・って書いてありました」
 「そうさ。ピンと来ただろう?」
 「最初は作戦司令室だと思いました」
 「おやおや・・・・そいつは悪かったねぇ」そう言いながらも、イザベルはコーヒーサイフォンの火加減から目を離さなかった。オレンジジュースが沸騰する前に火から外し、あらかじめアマレットを入れたマグカップに注ぎ込むと、ホットカクテル「ホット・イタリアン」の完成である。イザベルはそれにシナモンスティックを添えると、カウンターに置いた。「熱いかもしれないよ」
 メルは湯気を立てる橙色の液体を暫く見つめていたが、何かを確認するようにイザベルの顔を見つめ、さらに何度か視線を往復させた後、やおらマグカップに手を掛けた。
 「いただきます」
 「ゆっくり飲むんだよ」
 メルは、そのカクテルをそっと口に含んだ。暖めたオレンジシュースの甘い風味が口の中に広がり、次第に溶けていった。メルは三口ばかりを続けて飲むと、息を付いた。
 「甘いだろう?」イザベルはそう言いうと、いつの間にか作っていたらしい自分の分のカクテルのカップを口に持っていった。「アルコールをあまり感じないからね、お前には丁度いいだろう」
 メルはこっくりと頷くと、再びカップを口に運んだ。だが、今度はカップの底が見えるまで口から離さなかった。ぐっと喉を鳴らして全てを飲み干すと、熱とアルコールとでたちまち顔が紅くなり、メルは顔全体を包むように自分の両頬に手を当てた。
 「っ〜〜〜〜〜〜!」
 「・・・・困った子だね、だから言ったじゃないか」
 メルはカウンターに突っ伏すと、激しく首を横に振った。それは駄々をこねる子供が良く見せる仕草・・・・行き場の無い強い感情から最終的に全てを否定する行為・・・・に見て取れた。そして、それを証明するかのように、メルは消え入るような声でこう言った。
 「・・・・いいんです。もう」
 「?何だって?」
 「もう、いいんです・・・・って言ったんです」
 イザベルは一旦メルから視線を外すと、軽く息を付いた。
 思ったとおりだ。この子は全てを自分の中で解決しようとしている。それも今すぐ、この瞬間に終わらせようとしている。彼女にとっての好いた惚れたの傷の味は、確かに甘くないものかもしれないが、いずれ傷が癒えるのを待てばよし。全てを無かった事にする必要は無いのだ。まずはそれから教えなくては・・・・
 イザベルはうなだれたメルの肩にそっと手を置いて言った。
 「まぁ、気持ちは分るけどねぇ」
 「・・・・どうして分るんですか?」
 「馬鹿だね、アタシが何年女やってるとおもってるんだい」イザベルもまた、中身の無くなったカップをカウンターに置いた。「お前さんがどうして私に通信してこなかったのか・・・・その理由がはっきりした頃には、アタシゃもう車のハンドルを握ってたよ」
 「・・・・」
 「好きだったんだろう?」
 「はい・・・・」
 メルはこっくりと頷いた。なんとなく始まった会話が、かえって有り難かった。
 「人の物になっちゃったんだから、仕方ないよねぇ」
 「・・・・そうですね」
 「まぁ、女なら一度は通る道・・・・何時、誰とってのが違うくらいで、皆通る道さね」
 「・・・・」
 「で、何がいいんだい?」
 「何って・・・・何がですか?」
 「さっき言ってたじゃないか。『もういい』って。何がいいんだい?」
 「・・・・」
 「・・・・メル?」
 「もう、忘れる事にしますから・・・・」
 メルの言葉は重かった。それ以上の解決が許されないかのような、失意と絶望を背負った重さだった。その様子を見て、イザベルは少し間を取る事にした。メルの為には新しいオレンジジュースを温め始め、自分の為にはロックグラスを用意した。
 「じゃぁ・・・・『ハロー・グッバイ&ハロー』の企画はどうするんだい?」
 「大神さんが来ないなら、企画も何も必要ないでしょう」
 「残念だねぇ・・・・お前の企画じゃないか」
 『ハロー・グッバイ&ハロー』の企画は、実はメルがイザベルに持ち込んだものだった。無論、この事は歌劇団内部でも公にされていない。記録としてはイザベルの立案と言う事になっているのだ。
 だがイザベルは、大神がシャノワールを去った次の日の朝、目の下を真っ赤に張らせたメルが一冊の脚本の下書きに企画書を添えて支配人室に提出してきたのを、はっきりと覚えている
 「あの話も、終わっちまうのかい?」
 「はい」
 「それで、いいのかい?大丈夫なのかい?」
 「はい」
 「それで、本当に『大丈夫になっちまう』のかい?」
 「いいんです、もう・・・・」メルは再び顔を伏せた。既に赤く晴れ上がった両瞼に、新たな雫が宿っていた。「こうなる事を想像出来なかった、私が馬鹿だったんです・・・・」
 駄目だ。
 メルの心は間違った方向に折れている。全てを無かった事にしようとするなんて、イザベルにしてみれば、それが恋愛を終わらせる方法の一つであるなどとは、到底思えなかった。さらに、メルがもしこのまま今日という日を終わらせてしまったならば、メル自身が再び恋心を抱くような事は無いだろうと言うことが・・・・今のメルを見ている限り、誰が見ても間違いなくそう言いきれるのだが・・・・簡単に予想できた。
 メルの初恋という可能性もあるこの恋に(これについての事実はいずれメル自身の書記によって明らかにされる)、こういった終止符を打つのは極めて適切ではない。こんな可愛らしい娘に二度と恋心が訪れないなんて、そんな馬鹿な話があっていいはずが無いのだ。
 イザベルはメルに新しいカクテルを差し出すと、カウンターに肘を置いて身を乗り出した。
 「いいかい、よくお聞き」後ろ手にアマレットの瓶を取り、それををストレートでグラスに注いでから一気に飲み下す。「全部無かった事にするなんて・・・・お前にそんな事をする必要なんか、何処にも無いんだよ」
 「どういう・・・・意味でしょうか」
 「お前が今のまま、ムッシュの事を好いていて何が悪いんだい?いくら人のものになったからって、遠い海の向こう、手が届くわけじゃなし。疎まれるわけじゃなし」
 メルが黙ったままなので、イザベルは核心に向かって一気に喋る事にした。
 「ムッシュが忘れられないなら、ずっと覚えていればいいじゃないか・・・・
  ムッシュが好きなら、ずっと好きでいていいんだよ。それで何が悪いんだい?
  そうやって生きて、生きていくうちに、ムッシュよりも好きになれる男を捜せばいいじゃないか?
  お前・・・・さては自分にはもうムッシュ以上の男が見つからないと思ってるね?
  それともまさか、自分を好いてくれるような人間は、もうこの世にいないとさえ思ってるんじゃないのかい?
  ・・・・馬鹿だねぇ。男なんて、女が輝いてりゃ、勝手に惚れてくる生き物なのさ
  どうして、お前がファンレターを貰えたのか、知ってるかい?
  それはね、お前がムッシュに恋をしていたからさ・・・・恋をして、輝いていたからさ
  嘘なもんか。疑り深い娘だねぇ・・・・もう一杯あげようか?
  お前がムッシュに惚れて、惚れて・・・・どうしようもなく惚れちまってるとき、お前、誰よりも輝いてたんだよ
  その光は人を惹き付ける。恋は女を輝かせて、新しい恋を連れて来てくれる。
  そしてその時が来ても、お前はムッシュの事を忘れる必要なんか、全然無いんだよ。
  お前がこの先、ずっとムッシュのことを好いていれば、そうやって輝いているお前に魅せられる男は幾らでも・・・・・
  ・・・・って、起きてるかい?メル?」
 イザベルの言葉を途切れさせたのは、コクコクと船を漕ぎはじめたメルの姿だった。イザベルがもう一度声を掛けると、メルはうっすらと目を開いた。時計に目をやれば既に深夜。すこし時間を掛けすぎたかもしれないと、イザベルは思った。
 だが、イザベルの話を聞きながら居眠りできるほどの余裕があると言う事は、ロベリアの入電によってメルが受けたショックは、大分軽くなっているに違いない。
 そう信じたイザベルは、メルに「最後の一押し」を付け加えた。
 「今までの話、聞いてたね?」
 「はい」
 「それを踏まえて、さらにもう少し聞いてもらおうか」イザベルは体を捻り、カウンターの奥から一部のファイルを取り出した。
 それは一冊の企画書だった。タイトルには『ハロー・グッバイ&ハロー』とある。
 きょとんとしているメルに、イザベルは囁いた。
 「今からアタシが、お前に『恋の魔法』を掛けてやろう・・・・
  ムッシュがくれた恋心を永遠に覚えていられるように、お前が輝いていられるように。
  そして、いつかお前が新しい恋を迎えられるように。強い、素敵な魔法をね・・・・?
  ねえ、メル・・・・?
  ・・・・・だから、今は寝られちゃ困るんだよ。メル」


 〜数ヵ月後〜

 その日、シャノワールの入り口前には、前日の晩から出来始めたという記録的な長蛇の列が出来ていた。
 「えっとぉー、前の方を押さないようにぃ、ゆっくりと二列で前にすすんでくださーい!」
 列の整理にあたっているのはシーである。列に向かって拡声器を斜めに構え、常に乱れがちな列を正していた。列を作る人々の手には、本日初日を迎える「ハロー・グッバイ&ハロー」のパンフレットが握られている。
 「はいはいー!押さないでー!ゆっくり進んでー!・・・・えっとぉー、ここから後ろは立ち見になりまーす!」
 突然にシーが叫んだ台詞に、列を作っている男性客達がブーイングの声を上げた。
 「おいねえちゃん!そりゃないだろう!あの娘の顔が見えねえじゃねえかよ!」
 「こっちはあの娘に会うために、さんざ苦労してチケット取ってるんだぜ!」
 その剣幕に、一瞬押し切られそうになったシーであったが、すぐさま気勢を取り戻すと拡声器を構え、列の後方まで聞こえるような大ボリュームで叫んだ。
 「今日は一階フロアは立ち見だって、チケットに書いてあるでしょー!?それに「あの娘」「あの娘」ってひいきにするなー!このにわかファンどもめー!前は見向きもしなかったくせにー!って言うか、あたしの事も少しは見てよー!」
 しかしこの声も、「あの娘」を求める客達には、全くと言っていいほど効き目が無かった。
 
 一方楽屋では、先程まで外の人波と会場を伺っていたエリカが、興奮した口調でその様子を他のメンバーに伝えていた。
 「もう、すっごい人ですよ!ロビーにもバーにもキッチンにも客席にも人、人、人!シャノワールの中には人しか居ませんよ!」
 「・・・・微妙に台詞がヘンだよ。エリカ」
 「まったくだ。人以外の何がシャノワールに来るってんだ?」
 メイク用の大鏡の前、エリカの台詞に顔を見合わせてそう切り返したコクリコとロベリアであったが、エリカの奇妙な発言は毎度の事だったので、それ以上会話が発展する事も無かった。もっとも、当のエリカ本人はそんな二人の視線もかまわずに踊るような足取りで楽屋を歩き回っている。
 「エリカ!エリカ!まだ楽屋なのか!?エリカ!?」
 廊下の方から聞こえてきたのは、グリシーヌの声だった。やがて姿を現した声の主は楽屋の入り口に仁王立ちになると、ぐるりと周囲を見渡してから声高に叫んだ。
 「緊張感というものが無いのか!今日は公演初日!それもシャノワール初となるミュージカル・レビュウだぞ!?我々がこの巴里の町に新しいエンターテイメントの風を起こそうというこの時に・・・・お前たちもお前たちだ!促すくらいの事をしてやれないのか!」
 怒髪天を突く勢いのグリシーヌの矛先は、ロベリアとコクリコ、それに奥の鏡の前で髪を鋤いていた花火にまでとばっちりを与えていた。櫛を置いた花火が、周囲を気遣うような声で言った。
 「グリシーヌったら、そんなに怒らないで」
 「まったく花火まで・・・・よくもそんなことが言ってられるな!エリカの登場は第一幕の第一シーン、つまりは幕の上がった瞬間に、この私と一緒に舞台に立っていなくてはならないのだぞ!」
 「今日がどんな日かくらい、エリカさんだって分ってるわ。それに緊張の仕方、緊張のほぐし方も人それぞれでしょう?ね?」
 「しかし、もっと提供する側の意識というか・・・・・」
 「そこまでだ、グリシーヌ」興奮するグリシーヌの言葉を、おもむろにロベリアが遮った。「エリカならもういないぜ」
 「何?」
 「お前さんが説教のフリして怒鳴ってる間、ヤツはさっさとメイクを済ませて出て行っちまったのさ」ロベリアは出口の方向に顎をしゃくって見せた。「今頃舞台の上で、お前さんのことを待ってるんじゃないのか?」
 「・・・・何だと?」
 グリシーヌは慌てて踵を返すと、楽屋を飛び出して廊下を駆けていった。間を置かずにエリカとグリシーヌの声が廊下の奥から響いてきたところをみると、どうやらロベリアの予想は見事に的中していたようだ。その後をコクリコと花火が追い、楽屋は静かになった。
 「さて、そろそろアタシらも出るか」花組のメンバーが出て行った後で、ロベリアは、楽屋に残っている、もう一人の出演者に声を掛けた。メイクを済ませたロベリアの姿は、白い詰襟に包まれている。さしずめ、軍服に身を包んだ麗人といったところか。「メル、準備はいいんだろうね?」
 ロベリアに声を掛けられて、メルはそれまで読みふけっていた台本から顔を上げた。
 「なんだ、まだそんなもん読んでるのかい?」
 「出来るだけ、完璧にしておきたいんです」
 「やれやれ、あいかわらず真面目っ子だね」
 「はい」メルは椅子から腰を上げると、ロベリアの正面に向き立った。「それが私ですから」
 メルは背の高いロベリアの視線を正面から受け止め、はっきりとそう言った後、ロベリアを促すようにして楽屋を出た。
 「ハロー・グッバイ&ハロー」の主役にメルが抜擢されたのは、イザベルの意向だった。これは奇抜と言うにも大胆すぎるアイディアだったが、イザベルの狙い通り、メルは舞台に上がった瞬間から輝きだした。だがイザベルに言わせてみれば、メルは本来の輝きを取り戻しただけなのだろう。
 その変貌たるや、正に魔法の如し。
 メルはこのミュージカル・レビュウに向けて数々のトレーニングを積んできた。勿論日々のメイドとしての仕事の片手間として、だ。周囲のメンバー、スタッフのサポートとメル自身のの努力とがあって、ついに今日の初日を迎えることとなったのである。
 
 「しっかし、アタシがあの野郎の役をやることになろうとはね。世の中何が起こるか、分ったもんじゃない」
 「私だって、こんなことになるとは思ってませんでした」
 「だろうねぇ・・・・」
 「・・・・軍服、似合ってますよ」
 「見違えるかい?惚れるなよ?なーんてな♪」
 二人は並んで廊下を歩き、これから新しく始まるであろう世界へと・・・・事実、メルの今後の人生を大きく変える事になる「未来」へと・・・・歩を進めてていった。



 かくして始まったシャノワール初のミュージカル・レビュウ「ハロー・グッバイ&ハロー」は、初日の観客動員数と興行収入を手始めに、それまでのエンターテイメント業界における全ての公式記録を瞬く間に塗り替えた。主役を務めたメル・レゾンの純真な演技が観客を惹きつけて止まなかったのだが、やがてこの脚本がメルの手によって書かれたという事と、メルの実体験が元になっているという事が噂されると(こういったことが露見するのは、何時の世代にも「マニア」という人種が存在するからであろう)、その人気は不動のものとなった。
 やがて各国からの招待公演が増え、メルと巴里歌劇団の面々はついに海外へと進出。行く先々で更なる賞賛と人気を獲得していく。
 さらにこのミュージカルの脚本・演出は近代演劇のスタンダードと評されて後世に伝えられた。よって何時の世においても、この演目に参加しなかったミュージカル俳優は一人として存在していない。人気は世代を超えて伝えられ、全ての人々に愛された。特にシャノワールでの通算公演回数は、後に「一箇所の劇場における最も長い公演回数を持つ演劇」という世界認定を獲得し、演劇界にその名を深く刻み込んだ。
 
 そして─
  
 メル・レゾンの日記に、大日本帝国劇場における招待公演、そして帝國歌劇団花組との競演があった事が記されるのは、この初日公演から数えて10年後・・・・・・太正25年、春の帝都に桜の舞う、麗らかなある日のことである。

〜fine〜

back

あとがき

 今回の作品は、いつきさんからリクエストを頂いた訳でして・・・・
 実は、完成までにかなりの時間を必要としてしまいました。
 いつきさんには大変お待ち頂いた訳ですが、はたして、それだけの価値があったのでしょうか?
 正直言ってちょっと心配。でも、胸を張れるだけの自信はあります。

 人を好きになるとき、そしてその人と別れなくてはならないとき─
 望まない結末ですが、そんなシチュエーションも実際に在るかもしれません。
 でも、その時を迎えても、私はその人を好きなまま別れたいと思うのです。
 人を好きになる事、その行為自体に嘘は無いから。嘘じゃないなら、否定する必要も無いでしょう。
 この作品にはそういったメッセージを込めてみました。いかがでしたでしょうか?

 今回のSSは、言葉を捜すのに非常に苦労させられました。
 もしかしたら、読みにくい文章も多々あるかもしれませんが・・・・
 このあとがきまでお付き合いいただいた皆様、
 そして、この作品のきっかけをくれたいつきさんへ・・・・一言!
 本当に、ありがとうございました!

2003/05/08 fugueの小次郎