芝生に寝転んで空を見上げると、四角く切り取られた空の中を、雲が千切れ飛んでゆくのが見えた。空は風が強いらしい。
でも、つながりとんぼがふわふわと飛んでゆく中庭には、そんな様子は見られなかった。昼飯後の中庭は、昼寝には都合の良い、いつもながらの穏やかな表情を見せている。花壇ではアイリスが花を眺めているし、木陰ではカンナがトレーニングに勤しんでいた。
あくびが出るほどに「ふつーの日」だ。
芝生に寝そべったまま、目だけをキョロキョロと動かしながら、フントはそんな事を考えていた。
ここにいるといろんな人がぼくに会いに来る。みんながぼくをかまってくれる。
さっきも「オリヒメ」が自分の頭を撫でてくれた。でもあの人は他の人がいると自分にかまってくれない。「スミレ」もそうだ。でもかまってくれる時は、かまってくれない時の分もかまってくれるので、ぼくはこの二人が中庭に来てくれることをいつも楽しみにしている。たまにしか来ないけど。
『うりうりうり〜』
今、ぼくの頭を撫でているのは「タイチョー」だ。
『ほら、ほら。フント、コレおいしいぞぉ』
最近「タイチョー」は、中庭にぼくの姿を見つけるといつも食べ物をくれる。クッキーとか。べつに腹が減っているわけではないけれど、「タイチョー」はぼくがそれを食べるととても嬉しそうな顔をするので、ぼくはそれを食べてあげるのだ。だけどぼくが、いつも二口目から先を花壇の裏に埋めているのを「タイチョー」は知らない。前は食事の時以外は絶対に何もくれなかったのに。
『フント〜、おまえホンットにちいさいな〜』
「タイチョー」はぼくを持ち上げると、ぐいっと腕をのばした。「タイチョー」の手の上は空に届くかと思うほどに高かったけど、ぼくがさらに首を伸ばしても雲に届かなかったので、空はもっともっと高いんだなぁと思う。首を下げると「タイチョー」の頭のてっぺんが見えた。
最近、よくわからない事がある。
「タイチョー」の顔が変ったのだ。前はチクチクするほどに尖った頭だったのに、今は違う。背も大きくなった。全然別の人みたいになった。というか、全然別の人なんじゃないかと思う。でも、みんなはこの人のことをいつも通り「タイチョー」と呼ぶので、多分「タイチョー」なんだろう。
「タイチョー」にはいろんな名前があるのを、ぼくはしばらく前から知っている。
「タイチョー」「オーガミ」「オーガミサン」「オーガミクン」「ショーイ」「チューイ」・・・・・ややこしくなってくる。ぼくには「フント」だけなのに。
そういえば、「チューイ」と呼ばれるようになってからは、「ショーイ」と呼ばれているのを聞いたことがない。何故?
そしてさらに、最近になってまた別の名前があるのを、ぼくは知った。
・・・・なんだったっけ?
「加山さん、ここにいらしたんですか」
中庭に下りてきたマリアが、フントを抱いて立っていた加山に声をかけた。
「ああ、マリアさん。そちらの準備が出来ましたか」
「もうじきです。後は加山さんがいらして頂ければ」
「そっか・・・じゃ、またな」
加山は抱いていたフントを地面に下ろすと、その頭をワシワシと撫でた。フントはしばらく加山の顔を眺めていたが、やがてアイリスのいる花壇の方へと駆けて行った。
「あいつ、俺のこと判ってるんですかねー?」
中庭を後にし、通路に差し掛かったところで、加山はマリアに尋ねる。マリアはにこやかに微笑むと、動物だもの判ってるんでしょう、と言った後、でも加山さんに慣れるのが早くておどろきました、と付け加えた。
「なるほどねぇ」
二人はそのまま、地下へと続く階段を下って行った。
大神の渡仏後に、加山が華撃団花組の隊長を兼任するようになってから、もう一ヶ月になる。
地下に下りた二人はそのまま作戦室へ入り、更にその奥の演算室へと入っていった。首だけをひょっこりと部屋の中へ差し入れて、加山が中に声をかける。
「紅蘭〜、出来たか〜?」
問われた紅蘭は返事もせず、演算機の前にすわったまま、後手に手をひらひらさせて見せた。どうやら『気にしないで入って来い』というゼスチャーらしい。二人は促されるままに演算室へと入り、コンソールの中、両肩まで積み上げられた書類の束に埋もれ、それでもせわしなく基盤を叩き続ける紅蘭の脇に立った。
「これで・・・出来たで!終いや、加山はん、マリアはん」
その様子からして、全てのデータを入力し終えた紅蘭が、額に光る汗を指で拭いながら二人の方に振り向いた。そして再び画面に向き直ると、今度は別のソフトを立ち上げ始めた。その動きには疲れが見られないどころか、まるで基盤の上を滑るような滑らかさで動いている。指が何往復したらここまでのスピードで入力が出来るのか?それは紅蘭にさえ見当がつかない「謎」であった。
「なー加山はん、ウチ言われたからやりましたけど、これ一体どないしますのん?」
指の動きを止めずに紅蘭が口を開く。
「いいから、やってくれ」
そう言いながら加山は、紅蘭が打ち込んだ資料とはまた別のファイルに目を通している。
「へーい・・・・っと、OKや。後はたのみまっせ、なんやよう知らんけどな」
コンソールの脇立った紅蘭は、その席を加山に譲ると後に控えた。そして基盤を叩き始めた加山の背中をじっと見詰めながら、加山には聞こえない、隣のマリアだけに聞こえる絶妙の小声で話し始めた。
(いきなり書類の束渡された挙句に理由無しなんて、何やウチ気に入らんわマリアはん)
(何か考えがあるのよ、あの人は突拍子もない人だけど、考えも無しに動いた事はないわ)
マリアは、いかにもマリアらしく答えた。
(マリアはんは加山はんを認めとるん?)
(ええ)
(マジで?隊長代理ゆうとったけど、モギリ以外にウチらが仕切られるなんて聞いておまへんで?)
(加山さんは隊長代理よ。それ以上でもそれ以下でもないわ。払うべき敬意は、払うべきよ)
(・・・・さよか)
突然に現れた加山という指導者の姿に戸惑いを隠せずに、苛立ちをもてあます紅蘭。そしてその視線を受けつつも、意に介さない様子の加山。
しかし、これから数時間の間で、彼女の持つ加山に対する疑惑は完全に覆る事になる。
「・・・・・というわけだから、この光武の出力からすると、ここに報告されている降魔に対する攻撃、それにおける情報判断、処理・・・・霊力から見てパイロットの判断は間違っていないのに、光武側で何らかの無駄、矛盾が見られる」
「・・・確かに、期待値から10%も下回っとる。せやけど、この場合のエネルギー消費およびその変換率を考えると・・・・」
「そう、確かにそのことは考慮しなくてはならない。が、しかし、だ。この場合、この回路の流れ自体が問題になっている可能性も指摘できるんだ。フローチャートを一度洗い出した方がいいんじゃないのか?」
二人の間に挟まれた、80インチの大型モニターに次々と浮き上がってくる無数の数値が表しているものは、光武のプラックボックスの内容を解析したものだった。
それぞれの光武には、パイロットからの霊力、霊力から動力ヘの変換率、動作状況、戦闘時のダメージその他諸々の行動を記録させておく、通称『ブラックボックス』が備え付けてあり、その記録を解析することによって、戦闘時のコンディションや作業効率などを検証する事ができるのだという。そしてこのミーティングは、検証結果に基づいた霊子甲冑の改良案や訓練方針を上層部に報告するための、華激団にとっての要とも言える最重要項目なのだった。
本来ならば、この作業は大神と副指令、そしてモニター対象機体パイロットであるマリア、この3人の手によって行われるべきものだ。しかし、大神の渡仏以降初となる今回、この作業は加山の手に委ねられたのである。付け加えるならば、紅蘭がこのミーティングに参加するのも初めてだった。紅蘭は今までブラックボックスの検証対象となる事も無く、しかもブラックボックスについてこのようなミーティングが行なわれている事自体、知らされていなかったのだから。
コンソールには、先ほどから静かだが厳しい口調でデータの検証結果を述べる加山がいる。
それに対して、紅蘭は食い下がった。
「加山はん、設計の段階でバグは出えへんかったで?回路の特徴の一つやろ?」
「その『特徴』が、作業の妨げになっているとしても、君はそれを使いつづけるのか?」
「・・・ウチが設計した回路に、何ぞ問題ある言うんかい?」
紅蘭の口調が徐々に激しいものになってゆく。
「勘違いしないでくれ。これは『提案』だよ。再設計の予算要求をする必要がある」
「そないな銭が下りまんのか?ウチが確認した限り今年の予算はほぼ使いきっとるのに」
「『下りる』んじゃない『下ろす』んだ。この検証結果にはそれだけの力があるんだよ。それだけの重要性と、それだけの価値がね」
片手でキーボードを叩き、もう一方の指先でクルクルとペンを弄ぶ加山の視線は冷ややかだ。
「で、加山はん?あんたウチをここに呼び出しといて、一体何やっちゅうの?文句があんねんやったら他をあたったってや」
「現時点から四八:○○以内に変更概要の提出およびその立案を君に任せたい」
「その根拠は!?」
「今言ったとおりだ。聞いていなかったのか?低速行動時における出力の・・・・」
「そうやない!アンタや!」いつにない紅蘭の激しい口調が加山を制した「アンタを信じる根拠が何処にあるいうとんねや!」
「紅蘭!」
律しようとするマリアの声も、今の紅蘭には届かなかった。コンソール中央に座したままの加山に向かって、紅蘭は仁王立ちになって声を上げる。
「アンタは確かに隊長代理かもしれへん。けどな、ウチはそこまで口出しされとうないんや!光武に何かあんねんやったら、花やしきに相談したらええがな!」
一方的に怒鳴り散らした後、紅蘭は演算室から出ていった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
残された二人に、居心地の悪い沈黙が訪れる。ミーティングが中断してしまった今、二人は演算機からデータを落とし、広げてあったファイルを片付け始めた。さほど広くもないこの部屋に、カサ、カサという書類を集める音だけが響き渡った。
「すみませんでした、加山さん」
先に口を開いたのはマリアだった。
「あの娘、普段はあんな娘じゃないんですけど・・・・・」
そう言うマリアでさえ、紅蘭のあの態度をどう判断していいのか判らないような、そんな口調だった。
「いえ、いいんです。アプローチの仕方が悪かったのかも」加山はそう言い、笑って見せた。「やっぱりあれかな、大神じゃないと、っていう意識があるのかな」
加山は書類を机でそろえながら、独り言のように呟いた。
「案外・・・・いえ、そうなのかもしれません」
「やっぱり?あの年頃の娘はみんなそうなのかな」
加山の問いに、マリアは顔を伏せたまま答えた。
「・・・・大神さんが渡仏する前の晩に隊長室にいたのは、紅蘭ですから」
「・・・・そうか」
マリアの言葉にそれだけ言って、加山は口をつぐんだ。マリアもそれ以上何も言おうとしなかった。
紅蘭が中座した事でミーティングは打ち切りとなり、そして、夜になった。
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