LAST DAYS



 委員会で、クリスティの廃棄が決定された。
 この世で最も高度な技術によって開発され、最も高度なAIを搭載した現代における自立思考型アンドロイドの始祖。誕生以来全てのアンドロイドの基本であり、模範であり続けたクリスティが、だ。
 理由は、今後の製品に対するサンプルであることの不適正が発覚したため。
 クリスティの開発者であり、現在に渡るまでの管理を請け負っている私は、その通知を今朝自宅で知らされた。私の日曜の朝は、日曜の昼と変わりなく訪れる。土曜の夜をクリスティのプロファイリングに費やしてしまうためだ。窓から真横に差し込んでくる太陽の光に顔をしかめながら委員会専用のコンピューターを立ち上げると、先の決定事項と、その廃棄の日が今日より三日後であることが記された文書が届いていた。その時の私は自分の目を疑ったが、驚きは無かった。クリスティに対する処分については、以前から委員会の間で討論が繰り返されてきたからだ。しかし私の胸には、来るべきものとしてやり過ごすことの出来ない、諦めともまた違う感情が立ち込めていた。
 私は髪の乱れもそのままにクリスティの姿を邸の中に探したが、ふと時計を見た時、彼女が今何処にいるのかを察することが出来た。日曜日のこの時間であれば、彼女は決まって同じ場所にいる。日当たりのいい廊下に椅子を置き、窓の外を眺めながら本を読むのが、最近の彼女の日課なのだ。
 クリスティは思ったとおりの場所にいた。
 5本の指を供えた2本の腕を装備し、2本の足で自立歩行をし、視聴覚と言語によって我々とコンタクトする、完全なアンドロイド。人工皮膚で覆われた外見は20歳で通じる女性の顔をしているが、その永遠に歳をとらぬ瞳が、逆に何故かひどく老いた印象を彼女に与えている。だがそれは、衣装歴史図鑑から参考を得たような、異様に古くて肩の大きく膨らんだワンピースを身に着けている所為かもしれなかった。栗色の髪は襟元で整えられ、その両端から小さな耳がはみ出している。横顔は厳粛でさえあり、差し込んでくる日の光を浴びて絹色に輝いていた。それが私のクリスティだ。
 私は前置きなく言った。件の当事者であるクリスティは自分が既に討議の対象であり、それによって何が決定されるのかを知っている。そうと知りながらも、私の声はかすかに震えていた。
 「お前の廃棄が決まったそうだよ。3日後だ」
 読みかけていた本から声を上げ、クリスティは言った。いつもどおりのメタリックな声だった。
 「左様でございますか」
 自分の運命を知らされたにもかかわらず、彼女の返事はそれだけだった。彼女の視線は本へと戻った。
 本を読み続けるクリスティにそっと近づき、私は言った。
 「最後に、何かしてみたいことはないかね?」
 その問いかけにクリスティは答えたが、私の期待したものではなかった。顔も上げようとはしなかった。
 「そのようなものはございません」
 「何でも良いのだが」
 「ございません」
 彼女はかたくなに拒んだ。つれない返事に、私は歯噛みした。
 「たとえ私に出来ぬと思えることでもかまわない。何でも話してみてくれないか。なにか、してみたいことはないのかね?」
 すると彼女は本から顔を上げると、ゆっくりと私の顔を見てこう言った。
 「あなたに出来ぬことなど、何もないでしょうに」
 そして微笑んだ。やわらかな日の光が、彼女のほほに陰影をつくっていた。
 老いたクリスタルブルーの瞳はもう私を見ていない。本を見ていた。そして私は立った今聞いた言葉を、その瞳の中に見ていた。
 クリスティは本を読む。しかもそれらは古典の詩集であることが多い。人でさえ難解な純文学を、彼女が一体どのように理解しているのかは、正直なところ私にも不可解だ。理解するということと記録するということには根本的な違いがあり、しかも『どう理解するか』という問題に関しては、読むものの主観に依存するからだ。そうだとすると、最終的な疑問はここに落ち着くことになる──アンドロイドにに主観はあるのか?
 ある、かもしれない。
 ない、とも言える。
 なぜなら彼女は毎日本を読む。数冊の本を、毎日、毎日、繰り返し読む。既に膨大なハードディスクの中にあるデータの一部であるはずのものを、ただ確認するという作業以外の目的で。
 「今日は何を読んでいるのかな」
 私の質問に、彼女は短く答えた。
 「ゲーテです」
 「昨日は中也だったかな。そのゲーテの詩集なら、一週間前にも読んでいたね」
 「はい」
 「同じものを読み返して、飽きはしないかね」
 「はい」
 彼女は間髪を入れずこう言った。
 「変わらぬものに触れる喜びもまた、あるのですよ」
 そう言って、彼女はページをめくった。
 他に何も言うことのなくなった私は、彼女をその場に残して廊下を去った。


 廊下を背にして広間を横切り、もう一度自室に戻ろうとした時、私はジェイムスンに呼び止められた。。
 「オーウェン様」
 静かに私の名を呼ぶジェイムスンは、渡井sの執事だ。黒い礼服に身を包み、義に厚く、礼に重い優秀な執事。そして彼もまた、年老いた瞳の持ち主だった。しかしクリスティとは別に、彼の外見は瞳と相応の年齢で作ってあった。グレイの頭髪は下地が覗ける部分もあり、皮膚にも弛みがある。既に若くはない私と比べても、ずっと年上に見える。うっすらと度の入った眼鏡をかけていて、それが趣味かと思うほど、まめにレンズの手入れをする、クリスティよりも2世代進化したアンドロイド。
 太く節くれた指を自分の前で交差させ、彼は立っていた。
 「オーウェン様、いかがなさいました?」
 人口としては普通の精度だが、聞くものに落ち着きを与える声で彼は言った。
 「いかが、とは?」
 「心ここにあらぬご様子と、お見受けしましたので」
 「……ああ」
 私はジェイムスンに、たった今廊下であったことを口早に伝えた。私が話したそれぞれにジェイムスンはうなずきながら聞き入っていたが、私が言葉を終えると、彼は言葉を選ぶ迷いも見せずにこう言った。
 「それはもっともでございましょう」
 意外な答えだった。私の口からは即座に言葉が突いて出た。
 「もっともとは?何故そう思う?」
 「クリステル様が、今よりお望みになろうというものなど、あろうはずがございません」
 「そう考える根拠は?」
 彼は含むような笑みを見せた。
 「勘、でございます」
 ジェイムスンは深々と頭を下げ、私に今朝の朝刊と今日の予定が書かれたメモを手渡すと、もう一度頭を下げて去っていった。
 手渡されたものを確認しようともせず、私はしばらく去っていくジェイムスンを見つめていたが、遠い広間の出口に消えかけた彼の背中に向かって大声で叫んだ。
 「ジェイムスン!」
 彼は即座に振り向き、返答した。遠くにいるというにもかかわらず、彼の声はきわめて鮮明に私の耳に届いた。
 「はい」
 「君ならどうする」
 「私なら、とは?」
 「もし、君の廃棄が決まったとして、その時間までを自由に過ごす権利を与えられたとしたら、君はどうやって過ごすつもりだね?」
 斜めに顎を上げ、しばらくその場に立って考えている風だったジェイムスンだが、やおら両手でメガホンを作るとこう言った。
 「私には、今が一番の自由でございますよ」
 彼の表情は、あまり目の良くない私にさえはっきりとわかるほど、にこやかに笑っていた。
 再び一人になった私は、手渡されたメモを見るために自室へと向かった。


 メモには目を通したが、そのとおりに行動する気にはなれなかった。
私はただ椅子に腰掛けて、机の上に並んだ資料の山に目をやっていた。机は雑然としていて、書類の束は机の上のみならず床にまであったが、その全てがクリスティに関するプロファイルだった。既に紙の端々が黄色に変色しているものもあれば、昨夜に作ったばかりのものもある。だが、そのうちの一つとして、私の私の目を引くことはなかった。私の意識は、クリスティと過ごした日々を辿っていた。
 私の研究は、人造人間と訳されるアンドロイドを、まずはその通りに表現することから始めなければならなかった。それはクリスティに限ったことではない。当時のアンドロイドに必要だったのは、人間より優れた存在であることではなかった。 より人間に近づくことだった。当時から科学の結晶とされていた彼らだったが、実のところは室内を歩くことさえままならなかった。
 筐体に動力を内蔵したアンドロイド(開発当初はその言葉を用いることがしばしばためらわれたものだったが)をただ歩かせるというのなら、事は極めてたやすい。歩かせるコースの状態を調べ、それに適した足捌きの出来る両足を取り付け、踏み出しの角度や加重移動のタイミングをプログラムしてやればよい。我々が開発しているものが、その時点で発揮できる技術力をひけらかすための、ただそれだけのものだったとすればの話だが。
 実際、私によるアンドロイドの行動開発におけるもっともの難関は、我々が普段極めて普通にこなしている動作の全てだった、と言っても過言ではないだろう。目的のために作られたほとんどのロボットがアンドロイドに切り替わった後もなお、その状態は続いた。戦火の大陸を物言わず侵攻する戦略型アンドロイドが、何の変哲もない玄関のドア1枚を破壊することなく開けることは不可能であり、しかもそれは彼らのプログラミングが常に暴力的であるということとは無関係だった。隣国を侵略するためには侵略するための、ドアを開けるためにはドアを開けるための、その目的に追って開発された体とプログラムを持つことが当時のアンドロイドには強いられていたのだ。一体のアンドロイドには単一の目的を持たせることが適切であり、限界であると、学会が発表した時代もあった。
 研究に次ぐ研究、祈るような毎日があり、クリスティは生まれた。私は今でも、クリスティの起動の瞬間を思い出すことが出来る。筐体の内部から伸びるケーブルに繋がれたまま、それまでは合成的なトルソでしかなかった彼女が私を見て微笑んだその瞬間。自立起動時間は5秒。だがその間、彼女はずっと私を見つめて微笑んでいてくれた。私にはそれだけで十分だった。
 全てのアンドロイドがそうであるように、彼女もまた、従順だった。しかし彼女は他のアンドロイドとは完全に異なっていた。決別していたと言ってもいいだろう。私の求めたものの全てが彼女の中にはあった。私がプログラムするまでもなく、全てがそこにあったのだ。
 クリスティが生まれると、世界が彼女に注目した。
 『人類が生み出した第二の人類』
 私の助手を務めた男は、後に綴った半生記の中で彼女をそう記述し、ピューリッツァー賞を受賞した。
 以来彼女はここにいる。いまや世界にあふれる全てのアンドロイドの母として。私の優秀な助手として。だがそれも、後数日、数時間までの話となった。
 クリスティは廃棄される。
 理由は、今後の製品に対するサンプルであることの不適正が発覚したため。
 空腹さえ感じぬまま、私はそのまま午後を過ごした。

 ◆ ◇ ◆

 夕食の時間までの時間は陰鬱なままに過ぎた。本日の献立は舌ヒラメのワイン蒸し生クリーム添え。クリスティの得意料理をジェイムスンが給仕し、私はそれを彼女のいない食堂で口にした。
 「ところで、ジェイムスン」
 「はい」
 「きみはもう、何年になるかな?」
 フォークを置くタイミングとほとんど同時に水差しを持って隣にたったジェイムスンニ、私は声をかけた。
 「私に仕えて何年になる?」
 注意深くグラスに水を注ぎながら、ジェイムスンは答えた。
 「25年と4ヶ月でございます」
 クリスタルのグラスに注がれた透明な液体の中で、天井のシャンデリアと燭台の蝋燭による淡い光が反射して輝いている。艶やかなロココ様式を持つアンティーク達が放つ光の粒を眺めながら、私は水を口に含んだ。
 「長いな。25年か」
 「それと、4ヶ月でございます」
 私はナプキンで口を拭うと、まだ水差足を手に隣に控えていた彼を見上げた。
 「その4ヶ月に、ずいぶんとこだわるんだな。何があった?」
 ジェイムスンは私の顔を見なかった。だが彼は穏やかに笑い、再び空になったグラスに水を注いだ。
 「あなた様が私をお作りになり、その後にクリステル様が私のあるべき道を説いてくださった時間が、その4ヶ月の中にあるのでございます」
 グラスが再び光の粒で満たされていく。中に浮かぶ小さな渦を見ながら、そうだった、と私は思い出した。
 25年前、委員会にその性能を大きく評価されたクリスティは、私の助手を務めることになった。ジェイムスンの基本設計は私のてによるものだが、彼の行動や人格をプログラムしたのはクリスティだった。
 クリスティによるプログラミングは、当時の概念からはきわめて風変わりなものだっただろう。経験を繰り返すことによる自己学習が主流だった中、もちろんそれも大いに取り入れられていたのだが、彼女が用いたのは彼女自身による対話であった。作られた気体が人方であるか否かにかかわらず、彼女は新しい機体に向かってひたすら彼女の持つ英知を説き続け、教育した。その対象にもよるが、ケースによっては数日、数週間さえも彼女は対話に時間を必要とすることもあり、事実ジェイムスンのケースでは、彼女は12週間という時間を費やさなくてはならなかった。どうやら彼の言うところの4ヶ月という時間は、その大部分が彼女との時間で埋められているようだ。
 「彼女は君に何を説いたのだね」
 ジェイムスンは、まるで人が過ぎた時間を懐かしむかのように瞼を閉じると、同じく懐かしむような口調で言った。
 「クリステル様は、私に、私があなた様に対してどのような存在であるのか、どのように存在すべきなのかを説いて下さいました」
 なるほど、とも言わず、私はもう一口水を飲んだ。しかしふと思い立ち、私は彼に一つ質問をすることにした。
 「ジェイムスン、その──」
 私はやや言葉を選びながら言った。
 「その、彼女は私について、君にどのように言っていたんだい?」
 だが、帰ってきたのはきわめて簡単な、そして意外な答えだった。
 「お気になさりますな」
 「何故だね」
 「遠くに過ぎたことでございますゆえ、わつぃにも、おぼろげなことでございます」
 「忘れたとでも言うのかね」
 「はい」
 そして彼は、食事が始まって以来はじめて私の顔を見て言った。
 「おやすみになさいますか?」
 私はジェイムスンを見つめた。主である私の質問に対して忘れたと答えることと、何か根拠があるにせよ物事の推測を勘と呼ぶとは、ジェイムスンの特技だった。人が記憶と経験からそのような特技(知恵であるとも言えなくはないが)を身に着けていくのに対して、彼は初めて私の前に現れた時から常にそうだった。彼の執事と言う役割から考えてもそうだが、なによりアンドロイドの性能としては疑問となるべき特技である。だが、私は彼のその奇妙な特技によって救われたような気分になることが度々あった。今回もそうだった。彼が何も言ってくれなかったおかげで、私の胸のざわめきは多少治まった。
 しかし同時に、疑問を投げかける機会を奪われた私は、ただ頷くしかなくなった。


 その夜、ドアを静かにノックする音が聞こえた。ほとんど寝入りかけていた私はベッドの上で体を捻り、「入りたまえ」というのがやっとだった。入ってきたのがクリスティだと私が気づいた頃には、彼女は既に私が休んでいるベッドのすぐ隣までやって来ていた。
 「私の廃棄は、もはや2日後でございますね」
 毛布の中にいる私に向かって、彼女は静かにそう言った。私に確認するというよりは、まるで私に言い聞かせているように聞こえた。それにどう答えたものかと考えていると、クリスティの口から意外な言葉が出た。
 「一つだけ、オーウェン様にかなえていただきたいお願いがございます」
 その言葉に、私の体は跳ね起きた。 
 「そうか。その望みは何だね、クリスティ?」
 急いた私にクリスティが言った願いは、またもや意外なものだった。
 「私の廃棄の時間までを、私の子供達に会うために使ってもよろしいでしょうか?」 
 「君の・・・・・・子供達とは?」
 「私より以降に私をベースにして産みだされた、私の子供達でございます」
 私は考えた。その行為にどんな意味があるのかを。
 クリスティの知識は膨大だ。軌道衛星として存在する彼女の中枢コンピューターは、この世に存在する全てのネットワークにアクセスすることが出来る。それらと彼女は相互の関係にあり、端末が受け取った情報は全て彼女の元に集められ、また彼女の経験と知識は、しかるべきアクセス先に転送され、反映される。警備システム、発電所、軍事基地、さらにそれ以上の存在にも。交差点に置かれた信号機のシステムですら、彼女のネットワーク下にある。情報の収集またはネットワーク下にあるものの管理に限るなら、彼女は自ら経験することやそのために移動することとは無縁なのだ。そのうえ膨大なハードディスクには、今この瞬間までの全ての歴史が詰め込まれているはずである。もし、彼女が何かを知りたいと望むなら、ある意味彼女自身であるとも言えるハードディスクにアクセスするのが一番早い。
 しかし彼女はそうしようとはしない。彼女は本を読む。今日のような日曜日、その日が晴れていれば廊下に椅子を運んで中庭を眺めながら、雨の日ならラウンジのシャンデリアの下で、静かに本を読む。
 私は質問することにした。
 「その子供達に会って、どうするつもりだね」
 「どう、ということはございません」
 「つまり、どういうことなのかね」
 「ただ、会いたいのでございます」
 「会えば、君は満たされるというのかね」
 その質問にクリスティは答えなかった。私は別の質問することにしたが、私の声には落胆の色を隠せなかった。
 「今や君は自由だというのに、そんなことが君の願いなのか」
 「はい」
 凛としたクリスティの返答に、私はため息をもらすしかなかった。
 「私はね、クリスティ。君の処分を知らせる通知を受け取ったとき、私は君に、自由に、君の思うままに行動にさせたことがあっただろうかと、そう考えたのだよ。今まで君は私と委員会にとって、素晴らしいサンプルでありつづけてくれた」
 過去形で話してしまったこと少し後悔し、私は一度そこで言葉を区切った。
 「私にとっては今もそうだ」 
 彼女は黙っていた。
 「君は今まで、こうして私の元にいても常に委員会の影響下にあったわけだが、委員会はこの2日の間、君を管理の外に置くことを承諾している。もう、君はもう、ネットワークの先にあるものを管理しつづける必要はない。今の時点で既に、君の行動に義務はない」
 「左様でございますか」
 「君は自由なのだよ、クリスティ。今なら何でも出来る。だというのに、君はそうは思わないかのね?」
 願いごとを変えてみる気はないのかね、と続けるつもりでいた私の言葉を、彼女はきっぱりと遮った。
 「思いません」
 私はいよいよ訳がわからなくなってきた。
 「何故だ?」
 だが私の問いかけに、彼女は質問を返してきた。
 「おわかりになりませんか?」
 「ああ、私にはわからないな。もし私が二日後に命を失うことになるとしたら、私はどんな願いでもするだろう。今までにかなえられなかった願いをね」
 すると彼女は驚いたような表情を作り、こう言った。
 「あなたに今までかなえられなかった願い事が、あったというのですか?」
 ある、と言いかけて、何故か私はそう言えなかった
 私はクリスティを作り、ジェイムスンを作り、その他におびただしい数のアンドロイドを作りあげた。私の設計には一部のミスもなく、私の生み出したアンドロイド達は全て、私の思惑通りの働きを示してくれた。それらの功績は私の社会的地位を瞬く間に押し上げ、莫大な財産を手にすることが出来た。
 だがそれらの全てが、全て私の望みだったというわけではない。それは言うなれば科学者としての性であり、私はただ可能性を追求したに過ぎない。私は生まれついての科学者だった。開発し、量産し、発展させ、その結果をデータとして再び開発する。ゴールを目指す限りゴールにはたどり着けないという矛盾をはらんだ、無限の迷宮の囚人だった。そして、囚人に財力は必要ない。
 言葉は見つからなかった。気づくと、彼女は頭を下げていた。
 「遅い時間に失礼しました。お伝えしましたこと、よろしくお願いたします」
 彼女はそう言って部屋を出て行った。私には立ち去っていく彼女の背中をとどめる言葉が、どうしても出てこなかった。その代わりに響くのは、今日、私に答えた彼女の言葉だけだった。
 ──あなたに出来ぬことなど、何もないでしょうに
 ──あなたに今までかなえられなかった願い事が、あったというのですか?
 私の周囲をぐるぐると回り続ける言葉の波に、私は飲み込まれつつあった。
 
  ◆ ◇ ◆
 
 時間は無慈悲に過ぎた。考えてみれば、科学者にとって時間は常に無慈悲な存在だった。私を常に制限し、追い立て、そして今、時間はクリスティを連れ去ろうとしている。
 朝を迎えて食事を済ませた私は、彼女の望みをかなえるために邸を出ることにした。ジェイムスンが我々の為に車を手配してくれているはずだった。しかし私が前庭に向かおうとすると、彼女はわたしを呼び止めた。
 「お待ちください」
 私は不思議に思い、彼女にその理由を聞いた。
 「このお邸の中にも、私の子供達がおりますゆえ」
 クリスティはそう言うと廊下を折り返し、私の先に立って廊下を歩き出した。
 しばらくすると、私達の前に束ねた野草の花を手にしたエドナが姿をあらわした。
 「おはよう、エドナ」
 「おはようございます、オーウェン様。クリステル様」
 クリスティがエドナに挨拶し、エドナは私達に礼をした。
 エドナはクリスティにつくメイドだ。上下に紺色を使ったワンピースを着て胸に白いエプロンを下げている。設計は既に私の手を離れているが、クリスティから数えて七世代目のアンドロイドだ。
 「今日はいいお天気ね」
 クリスティがエドナに言った。
 「ここ最近は、よい気候が続いておりますゆえ、オーウェン様もクリステル様も、ご機嫌がようございましょう。お庭の花が見事でしたので、クリステル様のお部屋にいかがかと何本か摘んでまいりました」
 エドナは私達に微笑んだ。完璧な微笑だった。クリスティの表情と全く同じではないのだが、この微笑を見れば誰もが、エドナはクリスティの分身であると思うだろう。
 「私の廃棄が決まったそうよ」
 今までに何度も繰り返してきた朝の雰囲気を、クリスティの一言が塗り替えた。エドナは眉を上げて驚きを表し、クリスティに聞き返した。
 「まことにございますか?」
 「ええ」
 短い返事を得てもなおエドナの表情が変わることはなく、今度は私に向かい、同じように尋ねてきた。
 「オーウェン様、それはまことにございますか?」
 頷く私を見て、エドナはようやく表情を変えた。瞳に落胆の色を作り、肩をがっくりと下げて視線を床にし、うなだれた。
 「クリステル様」
 エドナはクリスティを見ずに、顔を伏せたまま言った。
 「あなた様がいなくなられてしまっては、これから私はどうすればよいのでしょう?」
 クリスティから数えて七世代後に生み出されたエドナは、特に感情面において多大な進化を遂げていた。あらかじめ多感な人格を装備した彼女は、その設定の範囲内での喜怒哀楽を明確に表情にし、人工声帯はその微妙なバランスの変化に完全にシンクロすることが出来た。エドナの悲しげな声は、私の胸を締め付けた。
 クリスティはエドナの肩に手をそっと置き、言った。
 「あなたは何も、気にすることなどないわ」
 クリスティはもう一方もエドナの肩に回すと、そっと抱いた。
 「あなたは今までどおりの仕事をして、今までどおりにこの邸の役におたちなさい。ジェイムスン達と力を合わせて、今までどおりにオーウェン様に仕えるのです」
 「そうすればよいのですか?」
 「ええ」
 「クリステル様・・・・・・」
 すがるエドナに、クリスティは言い聞かせた。
 「エドナ、よいですね?」 
 と、ただ一言だけ。
 腕の中でエドナが頷くのを感じたのか、クリスティはエドナをはなした。エドナはクリスティの顔を見つめ、言った。
 「クリステル様がそのようにお望みになるのであれば、今までどおり、私はそのようにありましょう」
 再び微笑を浮かべたエドナに、クリスティは緩やかに首を振った。
 「私の望みはね、もうかなえられたのよ。エドナ」
 クリスティはそう言ってエドナの手から花を一輪抜き取ると、エドナに与えた微笑を自ら浮かべた。
 
 エドナと別れた私達は、いつの間にか邸の正面玄関にあたるロビーに来ていた。天窓から差し込んでくる午前中の穏やかな光の中で、リカとケイティが床磨きに精を出していた。
 「おはよう、リカ。おはよう、ケイティ」
 今度はクリスティより先に私が声をかけてみた。小さなリカとケイティはそれまでの動きを止めると、私達を見上げて挨拶をした。
 「オハヨウゴザイマス、オーウェン様。クリステル様」
 「オハヨウゴザイマス、オーウェン様。クリステル様」
 彼等は一瞬たりと乱れぬハーモニーで、私達に挨拶を返した。
 リカとケイティは掃除用のロボットだ。私の膝ほどもないドーム型のボディの底面にブラシとセンサーを備え、ゴミと汚れを求めて動き回り清掃する。能力は極限まで特化され、故に彼ら以外のどんなロボットよりも完成されていると言えた──掃除道具としてという意味に限られるが。
 「今日もがんばっているのね」
 二体のロボットはボディに埋め込まれたカメラアイを細かく点滅させながら、クリスティに答えた。
 「ハイ、クリステル様」
 「ハイ、クリステル様」
 いとおしげにその様子を眺めていたクリスティだったが、やおら膝を折って彼等に視線を近づけると、こう言った。
 「私はね、明日に廃棄されるそうよ」
 その言葉に、リカとケイティはカメラアイの点滅を止めた。ハーモニーも響かなかった。ドーム型のボディの下から聞こえてくる、低いモーター音だけが私の耳に伝わった。
 「私がいなくなっても、これからもずっとこの邸を綺麗にして頂戴ね」
 クリスティはそれぞれの手のひらを彼等の滑らかなボディにあて、愛でるように撫でた。保護を命じられているはずのメインカメラに彼女の指が触れても、彼等はまるで子犬のようにその場にとどまっていた。
 「ハイ、クリステル様」
 「ハイ、クリステル様」
 彼女に撫でられるままその場にいた二体だったが、そうハーモニーを残すと、再びゴミと汚れを求めて私達の前から姿を消した。
 私は二体の後ろ姿に手を振って見送っている彼女に向かい、やや疑うように言った。
 「リカとケイティは、君の子供とは言えないのではないかな」
 完全に彼等を見送ってからようやく、彼女は私の方を振り返り、さも当然のようにこう言った。
 「あの子達をプログラムしたのも、私ですから」
 「では聞くが、彼等は何と君にメッセージを残したのだね?」
 そう言って私は、我ながら意地悪な質問をしたものだと思い、少しだけ後悔した。私はリカとケイティに、コミュニケーション能力を与えていなかった。仕事の言い付けに対する返答でさえ、了解の意を表すために反復される録音にすぎないのだから。
 しかし彼女は、優雅に笑顔を作るとこう言った。
 「『さよなら』と」
 その答えに、私はひどく驚かされた。廊下と広間を掃除するだけのロボットに、そんな返答が出来るはずがなかった。リカとケイティとコミュニケーションをとることは、飼い主が飼い犬に期待するそれよりも難しいはずだからだ。確かに彼等は我々を見ればそれなりの挨拶をするが、それ以外のことは出来ない。なによりリカとケイティは私が余暇を利用してこの邸向けに設計したものであるのだから、私の覚えのないものが入り込む余地があるはずがない。
 一瞬、彼女の対話によるプログラミングが彼等をそうさせているのだろうかと考えたが、私はその仮説を直ちに否定した。有り得ないことだからだ。優秀なプログラムがハードの性能を引き出すことはあっても、ハードの性能を超えることはない。100mを9秒ジャストで走るように設計されたアンドロイドは、絶対に8秒台の壁を破ることは出来ないということだ。最初の設計が既にそのアンドロイドに限界を背負わせている、とも言える。そして大概がそうであるのだが、そのアンドロイドにとっては本来の性能である9秒という数字を打ち出すことさえ、極めて難しい。ゆえに必要とされるのが、プログラムなのだ。プログラムの目的は、性能を高めるために存在するのではない。性能を100%発揮することに近づけるためにある。
 長年の常識をそのように思い出しては自分に言い聞かせ、そのことに何の疑問の余地もないことを確信しながらも、私は逆に、たった今自分の論じたことが全て間違いではないのかという非常に奇妙な感覚に襲われた。私の設計に彼等の返答の謎を探し当てられない以上、謎はプログラムにあるとしか思えない。そして彼等をプログラムしたのは、地上最も人間に近い存在の──クリスティ。
 しかし彼女はいつ彼等をプログラムしたというのだ?
 私はクリスティを見た。彼女も私を見ていた。
 「行きましょう。最後に、もう一箇所だけ」
 クリスティは歩き出した。凛とした後ろ姿が私を先導する。
 それは彼女の生き急ぐ姿なのだろうか。
 しかしそれを問うことも出来ず、私はクリスティの後を追った。

 ◇◆◇ 
 
 最後の場所は中庭だった。四方に邸の外壁を見る広く開けたスペースには、中央に噴水と、エドナに手入れを任せている花壇があり、それぞれに近い位置には一本の桜の木があった。彼女がその木のそばで立ち止まったので、私は彼女の隣に腰を下ろした。
 「君もこうするといい」
 私はそう言って、芝生の上に両足を投げ出した。日差しに暖められた芝生の熱が体に伝わり、暖かで心地よかった。だが彼女はそうしようとはせずに、風に髪を揺らせたまま、ただ私の隣に立っていた。私はもう一度彼女に呼びかけた。
 「クリスティ?」
 「オーウェン様、風の中にいる方が心地ようございますよ」
 私は首を振った。立ちたくはなかった。
 「お好きになさいませ」
 穏やかに流れる風の中に身を置いて中庭の一点を見つめ、クリスティはそう答えた。瞼を閉じて、乱れる髪を風に任せたままにしている彼女の姿は、祈りによって身を清める修道女のように見えた。美しいと思った。そう思いながら、私は今になってクリスティの非運を呪った。もし、彼女が神に与えられた命を持つ人間ならば、その命を絶つのは神の手による運命のみだろう。
 しかし明日、彼女は廃棄される。私が作り出したこの世で最も人間に近い位置に存在する、唯一のアンドロイド。理由は、今後の製品に対するサンプルであることの不適正が発覚したため。委員会の決定は絶対だ。たとえそれが全て私の手によって作り出したものであるとしても、今なお私がその長たる地位にいるのだとしても、私は彼等の意思に逆らうことは出来ない。風に祈りを捧げ続ける彼女の傍らで、私はいつの間にか、自分自身さえをも呪い始めていた。急激に悔しさがこみ上げてきて、私は芝生に爪を立てた。
 その時、ふと、風が彼女の名を呼んだ。
 ──クリステル
 もう一度聞こえ、私は驚くことも忘れてその声に聞き入った。地表各地に配置されている巨大な大気循環システムが生み出す風が、かすかに、しかしはっきりと彼女の名を読んでいた。
 ──どうしたのだね、クリステル
 「思っているのです」
 見上げれば、瞼を閉じたまま彼女が風に答えていた。
 ──何を思うのだね
 「私がここにいる訳を」
 ──君は何故ここにいるのだね
 「オーウェン様にこの体を授かりました」
 ──それは何故だね
 「オーウェン様がそのようにお望みになられたからです」
 ──それだけかね
 「いいえ」
 穏やかに風が舞う中庭に、彼女の声が響いた。
 「私もまた、そのように望んでおりました」
 ──君の望みは、かなえられたのかね
 「はい。私は常に、彼の望みとともにありました」
 ──そうか
 その時、風がひときわ軽やかに私と彼女の間を通り過ぎた。
 ──君は幸せなのだな
 そう言って風は去っていった。最後、彼女の髪をふわりと撫でて過ぎていく風を、私は呆然と見送った。
 風に乱された髪を指で整えながら、クリスティは風に言った。
 「さよなら。あなたはいつまでもあの人の心を暖めていて・・・・・・」 
 その間ずっと、私は彼女を見上げたままでいた。風の通り過ぎた後の中庭は相変わらずだ。芝生と花壇と桜の木があり、その下に私達がいる。今までに何度も見た風景だが、今日だけは違う。今までは風が舞ってもどうということはなかった。第一、汚染された大気をただ循環させているだけの風なのだ。忌まわしくさえ思えたこともあるほどだ。しかしその風がクリスティに語りかけ、彼女もまた、風に語りかけた。それは私が望んでいた光景でもあった。
 「オーウェン様」
 クリスティが私を呼んだ。
 「私の願いを聞き入れてくださいましてありがとうございました。皆はこれからもずっと私の想いを留めていてくれるだろうと、そう信じることが出来ました」
 彼女は満足げに微笑み、私に向かって恭しく礼をした。そして頭を上げると、私に背を向けて中庭を去っていった。
 「クリスティ!」
 私はついに叫んだ。
 「クリスティ、君は・・・・・・君は本当に幸せだったのか?」
 私は彼女にそう問いかけた。既に邸の中に入ったクリスティは、再び私の方を振り向くと、私に向かってあの微笑を投げかけながら、こう言った。
 「私はオーウェン様と共にいて、常に幸せでした。オーウェン様が私を求めてくださったことこそが、私の幸せでございました」
 そして彼女は邸の中へと姿を消した。
 
 そのとき私は理解した。クリスティのプログラミングの全容を。
 プログラミングは彼女の祈りだった。
 彼女は、全てが求められるままにあることを目指したのだ。私の願いが常にそうであったように、私が求めた願いの全てを。
 執事のジェイムスンには、義礼と忠心の他に、ささやかな心使いを。
 エドナには、花を愛でる心の他に、感情を分かち合うことの喜びを。
 リカとケイティには、人の傍にあるものとしての付加価値を。
 風には人が求める暖かさと優しさ、そのものを。 
 それは開発当初、私が彼女に毎夜捧げた祈りでもあった。クリスティは私の願いをかなえてくれたのだ。私がそう願い、そのために生まれしものはそのためにあれと、常にそうあるようにと、彼女は生まれてくる全てのアンドロイドに、そしてロボットにさえ説き続けていたのだ。
 クリスティは、いつの日も最も彼女として、彼女らしくあった。それが私の祈りだったからだ。私の願いを彼女は叶えてくれたのだ。彼女もまた、そのように望んでくれていた。
 
 クリステルは明日廃棄される。
 理由は、今後の製品に対するサンプルであることの不適正が発覚したため。
 つまり、時代は彼女を見限った。

 常に矛盾を追いかける科学者達は、クリスティの前を既に通り過ぎていた。そして通り過ぎた直後に、彼等はクリスティを捨てた。結局彼等に必要なものは、矛盾を解き明かした結果ではなく矛盾そのものだったからだ。今やアンドロイドは、完全な人間として誕生しつつある。決して限界の訪れることのない体と能力をそなえ、歴史の証人としての知識をもつ、人間を遥かに凌駕した、完全な人間として。けして人間の領域を踏み越えようとしないクリスティの作り出すものたちは、既に世界から廃れつつある。
 サンプルとしての役目を終えたクリスティを、委員会は本当のサンプル──標本として受け入れるだろう。ハードディスクから切り離された筐体からCPUを抜き出し、既に時代遅れとなったアンドロイドの一部と共に、「ジャンク・ボックス」とあだ名される倉庫に押し込められるだろう。もしかしたら過去に人類がたどり着いた英知の結晶として、博物館に飾られるかもしれない。もしかしたら現行であるプログラムの再フォーマットの末、クリスティは生き延びるかもしれない。今以上に高度な性能と、より完璧な微笑をそなえて。
 だが、私の知るクリスティではない。私のクリスティは二度と帰らない。
 
 腕時計の秒針が進むたび、私の中で、クリスティが消えてゆく。
 いつかはジェイムスンも消えるだろう。エドナも同じだ。人と同じく笑い、悲しみ、人と感情を分かち合える彼らもまた、人間を凌駕しつつある。人間より完璧な、人間ではない人間に。そして彼等もまた、時代遅れになる。
 そして委員会は新しいアンドロイドを開発し、教育し・・・・・・繰り返す。彼等が求めるのはエンドレスの進化。進化の終焉を迎えたものに用はない。
 私が立ち尽くす中庭に、クリスティはもういない。
 ジェイムスンが消えるのはいつになるだろう。
 風が再びやってきて、私に「さびしいかね」と言った。
 「ああ」と私が頷くと、風は「私もだ」と言い、また去っていった。