〜中庭にて、初夏〜
帝都にも梅雨が訪れた。
細かい雨がさらさらと降りしきる日が続き、帝劇内でも、やれタンスの湿気が多いだの、おやつのパンがカビただの、その影響が及ぼす事故事件(?)が後を絶たない。
その辺はやはり、ここが女性の園というところが大きいのだろう。椿など、売店に置いてあったプロマイドの在庫が湿気でくっついてしまい、ダンボール一個分を全滅させてしまったなどともう大騒ぎである。
しかし、この帝劇の一角で、それに全く影響されていない・・・・というか、気にしていないので騒ぐこともない・・・・部屋がある。
支配人こと総司令・米田のいる支配人室である。
この米田という男、総司令で支配人で大酒のみで酔っ払いであるにもかかわらず、このうっとおしい季節を、紫陽花にのたりのたりと蝸牛の這うのを窓際で眺めては、酒の杯を楽しむなどというなかなかの風流を持ち合わせた人間で、今日も今日とて、部下である大神を連れて中庭へ出向き、水に濡れた芝生を眺めていた。
「紫陽花が色づいてきたなぁ、大神ぃ」
米田はやや日本酒に頬を染めながら、目を細めて中庭の木々を眺めていた。
「白から青、えんじ・・・ってなぁ。毎年綺麗なもんだよなぁ・・・・おら、もう一杯いけ」
「あ、いただきます」
二人は酒の入ったとっくり数本と焼き鳥を挟んで竹の長椅子に腰掛け、時にタバコを吹かしながら、実にのんびりと時が流れてゆくのを楽しんでいた。
まぁ、大神にしてみれば、自分の歳にはいささか早すぎるとも言えるこの「まったり」とした時間の過ごし方に退屈を覚えるときもあるのだが(米田が大神を付き合わせるのは、長いときで半日にも及ぶのだ)、普段意外に話す機会のない米田とこうして時を過ごすことは、何やら故郷の父親に孝行をしているような気分にもなり、会話の内容によっては、なかなかまんざらでもない気分になるのだった。
「ときによぉ、大神ぃ」
米田が三本目のとっくりを逆さにしながら言った。
「お前、結婚どうすんだ?」
「へ!?う?ゲホっ!げほっ」
杯を口にしてに天を仰いでいた大神は、米田の突然の質問に胸を詰まらせて咽返った。
「おーおー、大丈夫か?気管に入ったんじゃねえのか?」
「そんな・・・突然そんなこと聞かれりゃ、そりゃ咽ますよ支配人;;;」
大神はまだ苦しそうな顔を上げながら、米田の顔を見上げた。その米田といえば、その様子をちらりと眺めただけで、またすぐにその視線を庭の向こう側へと戻していた。
「お前今年で幾つだ?」
「は?」
「年だよ年。何歳になるんだ?」
「はぁ・・・今年で二十三になりましたが」
「そうか・・・・じゃあ丁度頃合なんじゃねえか?どうだ?」
「な?何言うんですか、突然。自分にはまだ女房をもらうほどの甲斐性はありませんよ」
話についていけなくなった大神は、手酌で杯を空けると、ふうとため息をついた。
「・・・・まさか見合いしろとか言うんじゃないでしょうね?」
その言葉に、米田は串に残っていた焼き鳥をほおばりながら答えた。
「・・・・まぁ、似たようなもんだろ」
目を丸くする大神に、米田は言葉の調子も変えずに続けた。
「相手はもう乗り気なんだ」
「は!?もうそんなことやってるんですか?自分に何にも話さないでひどいじゃないですか!」
立ち上がっていきり立つ大神を、米田はまあまあと宥め、大神が再び座ったのを確認すると、煙草に火を付けて煙をくゆらせた。
「まぁ、そう言うな・・・・以前からお前の活躍に目を置かれていた方のご令嬢だ。どっちかっていうと娘さん以上にその人の方がお前を気に入ってるんだがな」
「そう・・・なんですかぁ・・・?」
「そうなんだよ」
「・・・・陸軍の関係者の方ですか?」
大神が米田に尋ねた。
「いいや」
米田は煙草をくわえたまま首を横に振った。
「・・・・じゃあ、海軍の」
「いいや。相手は実業家」
「は〜・・・実業家ですか。大手の方ですか」
「でっかいぜぇ〜、とてつもなく。ある方面では全世界シェア率100%だそうだ」
「名前は?」
「神崎重工」
米田の言葉が終わるのと大神が後ろにひっくり返るのがほとんど同時だった。よほどのダメージがあったのか、大神は濡れた芝生に顔を突き刺したまま暫くピクリとも動かなかったが、やおら起きあがると、それこそ烈火の如き叫びを米田に浴びせた。
「かっかかか神崎重工って、そ、それってまさか、っていうか、絶対まるっきりすみれくんじゃないですか!!」
「っと・・・・おいネギの切れっぱし飛んできたぞ。きたねえやつだなぁ」
米田は顔をしかめながら、再び立ちあがり天に向かって吠え立てる大神を見上げた。しかし大神は更にその勢いを増して米田に詰め寄る。
「どうなんですか!すみれくんと見合いしろって言うんですか!?司令!!」
「・・・・まぁ、そういうことだわなぁ」
「『だわなぁ』?だわなぁってあんた!!」
「いくらなんでも俺に向かってあんたはねえだろ、お前」
「あります!!」
「へいへい」
大神の怒りは留まるところを知らない様子なのだが、米田の方がその手のあしらい方に長けているというか、まるで大神の感情の移動を予想でもしていたかのような物腰に、当の大神の方もだんだん手応えが無くなってきたのか、暫く一方的にわめきちらした後、徐々にその勢いをさげていった。
「別によ」米田は、うなだれた大神ががっくりと腰を下ろすのを見て、宥める様に言った。「お前の気持ちを無下にしてるわけじゃねえよ、俺は」
「はぁ・・・」
大神は無意識にとっくりに手を伸ばしていたが、それが空だと気がつくと、やや忌々しげにひっくり返した。
「俺だって困ってるんだよ、でもな、お前の上司だって事で俺に話が来ちまったんだ。でなきゃお前、こんな話するかよ」
「はぁ、そうだったんですか・・・」
「そうなんだよ。相手はあの神崎のじーさまだ」
「って、あの」
「そう、あの」
大神が顔が思わず声を上げ、同じ調子で米田が答えた。
何時の間にか雨の上がったある日の昼下がり、中庭には途方に暮れたしかめっ面が二つ、仲良く並んでいた。
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