〜涙の理由〜

 呼び出された副指令室の前。
 大神がノックの返事を待っていると、晴天時に開放される、中庭を見下ろせる渡り廊下の出窓の一つから歌声が聞こえてきた。

 「とおりゃんせ とおりゃんせ
   ここは何処の ほそみちじゃ
    天神様さまの ほそみちじゃ
     この子の七つのお祝いに・・・・」

 
 唇から離れた瞬間にかき消されるような細い声が、風のいたずらで大神の耳にははっきりと聞こえてくる。
 
  「この子の七つのお祝いに 
    お札を納めに参ります
     行きはよいよい 帰りはこわい
     こわいながらも
      とおりゃんせ とおりゃんせ・・・」

 

 「マリアよ」後ろから声を掛けられて振り向くと、大神の直ぐ後ろに制服姿のかえでが立っていた。「今日みたいに誰もいない日は、歌ってるみたいね」
 「マリア・・・・」
 思わずその名前を口に出して、大神の顔がまるで日陰に入ったようにふっと曇った。大神はそれ以上口を開くことも無く、かえでに促されるままに部屋に入った。そこで二人は、予定されていた報告と幾つかの意見交換、更に花組の公演スケジュールと戦闘演習期間の調整などを行った。予定はなんの滞りも無く終了した。ただ、閉ざされたドアからもれ聞こえてくるマリアの歌声だけは、その始終も止むことは無かった。
 もしかしたら錯覚かもしれない。
 大神はそう考えかけて、次の瞬間にはその考えを打ち消した。たとえ錯覚であるにせよ、この部屋に入ってくる時に施錠した出窓と、重い一枚板の副司令室のドアをもすり抜けてマリアの声が聞こえてきたにせよ、大神の思いはさほど変わるものでは・・・ことさら、安らぐことは・・・無かったからだ。
 「大神君は」帰り際、かえでが大神に言った。「あの娘のこと、知ってるんでしょう?」
 大神はその言葉に頷いた。口を開く気にはどうしてもなれなかった。
 「そう・・・私は姉さんがまとめていた彼女の調査報告書を読んだんだけど・・・」
 かえではそう言ったきり下唇を噛んだ。普段気丈なかえでが、人前では決して見せることの無い仕草を、たとえ密室であるとはいえ大神の前で露見させるという事が、その心境を表に出していた。しかし大神にとって、そんなかえでの心境を察するのはさほど苦労するものではなかった。今、かえでが思い返している事を、大神は直接マリアの口から聞かされて知っていたのだから。
 「かえでさん」大神はやっとの思いで口を開いた。
 「大丈夫ですよ、彼女は・・・
(私は・・・ここに居る事さえ許されざる罪人なんです)
 ・・・・強い人間ですから」
 記憶の淵を駆け上がってきた言葉を振り払い、大神はそう言って再び口を噤んだ。かえでは大神の言葉に偽りが無いことをその瞳で確認すると、黙って入り口のドアを開けた。
 マリアの歌声はもう聞こえてはいなかった。大神は中庭に彼女の姿を探しかけたが、結局そのまま自室へ戻った。
  

 一年前。帝劇の地下射撃場。
 大神は新たに軍から配備されることになった新型の自動拳銃の試射のため、その数日前から銃声と硝煙にまみれた生活をしていた。本来ならばそのような作業に大神があてがわれることは無いのだが、「最終的に使用する者の手による最終的な試験」という名目がついた以上、それに否定的な意見を設けることも出来なかった。 だが大神にしてみてもそれは自分の思うところの意見でもあり、また劇場での仕事も隊長としての仕事も一段落ついたところだったので、この仕事をいかにも申し訳なさそうに持ってきた事務のかすみの話を快諾したというわけなのだった。まあ、自分の手の平が血豆だらけになることまでは、その時点では想像も出来なかったのだが。
 「・・・っと」
 耳を劈く数発の銃声が鳴り響いた後、大神はこの日何十本めかの弾倉を拳銃から取り出すと、それを射撃台の上に起いて耳栓と防弾グラスを外した。そしてその上に置いてあったバインダーを開きペンで何かを書きこんでゆく。そのバインダーに挟まれているレポート用紙には、既に同内容の文章が大神によって書き記されていたのだったが、大神のこと作業は足元に置かれた弾丸の箱の数を数える限り、どう控えめに考えても今日丸一日はかかろうかというありさまだった。
 「・・部品損傷・・異常・・・・・なし」
 大神はうんざりした様子でそれだけを書き込むと、奥に置いてあるソファにどっかと腰を下ろした。「リサイクル」という名目で支配人室から払い下げられた本皮張りのソファは、スプリングがイカれている為にその座りごこちはあまり良いものではなかったが、それでも疲労しきった大神の体を受け止めるだけの役には立った。大神は指で眉間を押さえると、ぐっと大きな深呼吸を一つこしらえた。射撃場のくすんだ空気と、指先に染み付いた火薬の匂いが頭の中にまで充満していくのがわかった。
 その時、射撃場に誰かが入ってきた。大神がその方向へ視線を向けると、その人影は射撃場全体の照明スイッチを入れた。
 「おつかれ様です、隊長」
 入ってきたのは戦闘服姿のマリアだった。戦闘服といっても、今マリアが着用しているものは、光武の操縦の際に霊力ケーブルを接続する端子を除装・簡易化させたものであり、いわゆる「軍服」と呼ばれるものに近い。デザインは光武用のものを踏襲するものになっているが、帝国軍の制服と同じ濃緑色を基調とさせた配色が妙に新鮮で、大神にはマリアが入ってきた瞬間に彼女だと気づかなかったほどだった。
 「ああマリア」大神はそのままの姿勢でマリアに声をかけた。「なんとかやってるよ・・・こんなに大変だとは思わなかったけどね」
 大神はそう言って、血がにじみ豆だらけになった手を上げて見せた。マリアは大神の脇に腰を下ろすと、大神の手をいたわるように両手で包み込み、やさしく微笑んだ。
 「ふふっ・・・そう思って、これを持ってきたんです」
 マリアがポケットから取り出したのは粘着式の包帯と軟膏だった。マリアは自らの指で軟膏を掬い取ると、大神の掌のもっとも痛々しく見える部分にあてがい、塗り込んでいった。
 「やっぱり・・・持って来てよかった。役に立ちそうですね」
 マリアはその最中に大神の顔を見ることはなかったが、大神は彼女の手当てを受けているだけで連日の疲労感が薄らいでゆくのがわかった。視線をずらすと、彼女の美しいブロンドの前髪が、室内の鈍い照明にもかかわらず、はっきりと輝いているのが見えた。
 「テーピングしますから、袖を捲くってもよろしいですか?」
 言葉の終わらぬうちに袖のボタンをくるくると外し始めたマリアの手を、大神は慌てて制した。
 「い?い、いいよ。自分でやるさそれくらい」
 「だめです、ただ上げるだけでは皺になってしまいますから。さ、腕をこちらに」
 「え・・・うん」
 押しきられるようにして大神は腕を差し出した。分厚い制服の布地であるにもかかわらず、マリアは器用に大神の袖口を折り返してゆく。その時、マリアの細く白い指先が大神の素肌に触れる度に、大神は自分の顔が高潮し、喉がカラカラに乾いてゆくのがわかった。たったそれだけのことに自分は何を照れてているんだろう?ただ袖をまくってもらうだけなのに。そう開き直ったときには既に視線を合わせることさえ困難になっていた。
 そうして大神の右腕があらわになると、マリアは包帯を取り出して大神の手首の辺りに巻き付けていった。くるくると滑らかな動きで巻かれてゆく包帯を、大神はなんだか不思議なものを見るような気持ちで眺めていた。事実、今の大神には普段見なれない制服に身を包んだマリアの姿がこんなにも魅力的だったことが、それに今改めて気づかされたことが、そして自分がそれに魅了されていることが不思議でたまらなかったのだ。
 (美しい女性)
 味も素っ気もない言葉だが、それが大神がマリアに持つ素直な感情だった。

to next