「背中越しに見る夢」

 
 
 
 夜明け前。
 街灯もまばらな、銀座の裏通りにそのバーはあった。
 「ありがとうございましたー」
 オーク材の一枚板に化粧彫りを施したドアを体で支え、そこに勤める若いバーテンが常客達を見送っている。愛想良く手を振り、客達の姿が見えなくなるまで何度も会釈をして、看板の灯りを消した。時刻は深夜をとっくに回りきっている。
 「ところで、師匠」
 その姿のそこかしこに少年の面影を残すバーテンは、床に点々と散らばるアルコールの水溜りをモップで拭き取りながら、カウンターの奥でレジを操作している男に向かって声を投げかけた。師匠と呼ばれたその男は、この店の主なのだろう。淵の黒い眼鏡をかけ、眉毛にも白髪の混じり始めた初老の男だった。分厚い唇に煙草を挟み、時々煙を吐き出しつつ紙幣を数えては、数字を帳簿に書き加えている。
 「何だ?」
 無愛想ながらも返事が返ってきたので、バーテンは気をよくして話を続けた。
 「今日は変な客が来てましたねぇ」
 「そうだったか?」
 「そうですよ」そう言った後、バーテンは何を思い出したのか、喉を鳴らして笑った。「あんな客、初めて見ましたよ」
 言葉の端々に愉快そうな笑を含ませながら、バーテンは喋り続けた。もちろんモップを動かす手は止めずにだ。床はもう大分綺麗になっていたが、彼の手は未だ動きを止めない。
 「男二人でメニューも読まずに、注文するのは同じ酒ばかり。それに、確かに二人で入ってきたくせに、両方とも口を開こうともしないんだから。その代わりなんでしょうかね。飲んでましたねぇ、まるで機械に油を注ぐみたいな雰囲気でさぁ。料理も何も無く、次から次へとグラスを空けて、それ以外に口に持っていくのは煙草だけでしょう?ミキちゃんなんか気味悪がっちゃって、テーブルにも近づかなかったんですよ?他の客も、変な目で見てましたしねぇ。
 ・・・・・そういえばあのボトル、もう無くなっちゃいましたよ?全部奴らに飲まれちまいましたんでね。早めに新しいの、入れとかないといけないんじゃないですか?」
 帳簿から顔を上げた師匠は、煙草を口から離し、灰皿に押し付けた。そしてすぐさま二本目を取り出すと、ジッポーで静かに火を付けた。
 「かまわんよ」師匠は事も無げに言った。「あの酒は、どうせあいつ等しか飲まん」
 その師匠の声に、バーテンの手が止まった。
 「師匠、あの客って何回も来てるんですか?」
 師匠は無言で頷いた。
 「師匠、あの客って、毎回あんな調子なんですか?」
 師匠はやはり無言で頷いた。だが、『あの客』に対するバーテンの疑問は尽きないようだ。好奇心を宿らせた瞳が、師匠の答えを待っていた。その後バーテンが何度か促すと、師匠は二本目の煙草を吸い終わった辺りでようやく口を開いた。
 「あの客達はな、年に一回しかこの店にはやって来ない。そして毎回あの調子であの酒を飲んで行くのさ。気にしたことは無いが、多分日付も同じだろう」
 そう言い終える頃には、師匠の指は三本目の煙草を挟んでいた。
 「師匠」肘を抱えて顎を撫で、考えるような素振りを見せつつバーテンは言った。「そいつぁやっぱり、おかしな客ですよ。年に一回だけやって来て?あの酒を飲む?まるで七夕みたいな客ですねぇ。まぁ、七夕みたいに綺麗なもんじゃ無いですけどねぇ」
 「なるほど、七夕か」今度は師匠が顎を撫でた。「かもしれねぇな。何と言うか・・・・・儀式なんじゃねえのか」
 「儀式?酒を飲むのがですか?何ですか、そりゃぁ?通夜ですか?」
 バーテンが尻上がりに師匠の言葉をなぞった。若い瞳は好奇心で溢れていた。それを見た師匠はあからさまに眉を寄せた。好奇心は若さの象徴ではあるが、今の彼にはそれを許容するつもりはなかった。第一、床の掃除はまだ終わっていない。このバーテンが店にやってきてから数ヶ月が経つが、彼は覚えが早い割には仕事が遅かった。
 「いいから、お前はとっとと掃除を終わらせちまえ」
 師匠は吸いかけの三本目を、バーテンに投げつけて背を向けた。無論、直後に彼の指先は四本目の煙草を求めて彼の懐中を彷徨ったのだが、あいにくと投げつけた三本目が最後だったらしい。彼は、床の上で未だ煙を燻らせているそれがバーテンによって片付けられるのを、横目で名残惜しそうに見ていた。
 「通夜ねぇ・・・・・」
 
 
 

 
 
 
 ついに掃除を終えた若いバーテンが店を出た後、師匠と呼ばれた男は、一人カウンターに座り、すっかり空になった一本のボトルを手に取り弄んでいた。それはバーテンが愉快そうに話していた、二人組みの男達が空けたボトルだった。栓を抜いて鼻を近づけると、中身が空だとは思えぬほどの強い風味が彼の鼻を突き刺した。
 
 グレンファークラス105。
 
 このボトルに、彼等は何を求めたのだろうか。
 アルコール度数60を超えるその風味は、まさしく液化した火薬と呼ぶに相応しい。グラスを近づければ強烈な風味が鼻を突きぬけ、口に含めば舌の上で爆発し、飲み下せは火の玉だ。それでいてフィニッシュがスイートだと言う酒通もいる。しかし、大抵の客はその魅力に気づこうともしない。第一、彼が知る限りこの酒を注文するのは彼等しかいない。
 いや・・・・・違う。
 過去にもう一人、この店でこの酒と戯れた客がいた。女だった。いつも一人でやってきては、グラス一杯にたっぷり時間を掛け、酒の楽しみ方を知っていた女。たった一人でこの店の空気を変え、客達の視線を独占していた女。それでいて誰とも口をきかないのだが、偶に目が合うと女神のような微笑を見せる女・・・・・
 「フィニッシュがスイートなのよね。初めて飲む人には、そう勧めるといいわ」
 もし彼女の口からその言葉を聞かなければ、彼もその事に気づく事は無かっただろう。その事を告げると、彼女はこう言って微笑んだ。
 「気付くんじゃないわ」彼は彼女の言葉とその微笑を一生忘れないだろう。「思い出すのよ・・・・・何もかもが過ぎ去った後にね」
 
 彼等と入れ替わるようにパッタリと来なくなった、名前も知らぬ女。
 彼女もまた、この酒に何かを求めていたのだろうか。
 彼等と同じように、もしかしたら同じものを。
 燃え盛る炎にかき消され、しかし確かに存在した、小さく、貴重な・・・・・在りし日の思い出を。
 
 既に夜も白み始めていた。普段ならば彼も店を後にする時間だった。
 にもかかわらず、彼は空のボトルを握り締めたまま、かなりの間カウンターに留まっていた。
 
 
 

 
 
 
 瞼を開けると、斜めに差し込んでくる朝日が見えた。
 東の空をうっすらと白く染める幻想的な情景が、頬を撫ぜる北風の冷たさも忘れさせた。
 そう。夜明けは美しい。
 たとえ世界中の何処に赴こうと、これから先何が起きようと、この世の誰もが、この夜明けという芸術品は拝むことが出来る。夜、たとえ一つの星も瞬かずとも、人はそれを闇とは呼ぶまい。いずれ訪れるだろう天の奇跡を信じて、その空を見上げるに違いない。たとえ雨粒が空を洗い流そうとしても、人はそれを無粋とは思うまい。いつか臨むだろうその輝きを信じて、やはり空を見上げるだろう。
 それは全て、貴女が教えてくれた事。
 
 だから・・・・・
 
 
 
 加山はぐっと胸を反り、空を仰いだ。
 朝日が目を刺したのか、それとも喉元を通り過ぎた北風に熱を奪われたのか、喉を短く呻かせて息を漏らした。口を開くと吐息が空に舞い上がり、息をする度に白いマーブル模様が星空の中に溶けて消えた。それが愉快でたまらないのか、加山は更に胸を反り、まるで呆けたように空に向かって白い息を撒き散らした。
 「そんなに動いてくれるなよ」
 不意に自分の胸の下から聞こえてきた声に、加山は目を瞬かせた。
 「・・・・何か言ったか?」
 訳も判らず、ただ探るように投げかけた声。しかしその答えはやはり胸の下から返ってくる。
 「動くなって言ったんだ。落ちるぞ」
 「・・・・・?」
 「ホラ、手を肩に置けよ。本当に落ちちまう」
 かなり無理矢理な感じで首を捻り、振り返えった声の主のその顔を、加山は初めて見るような気持ちでまじまじと見つめた。見慣れた髪型の親友が、見慣れない角度で笑っていた。
 「大神・・・・?」
 「気分はどうだ?まぁ、もう吐く物も無いだろうが・・・・・」
 
 ─ああ。そうだった。
 
 もう一度「そうだった」と声に出し、加山は全てを思い出した。自分が何故、大神に背負われて銀座の裏通りを歩いているのかを。酒には大して強くもない体に無理を強い、意識を失うまでグレンファークラス105を求めたその理由を。
 
 思い出したかった。たった一人であの店に赴き、時には机の引き出しにボトルを忍ばせるほどにあの酒を愛した、貴女の面影を思い出したかった。
 女々しいことなど一片も許さない人だったが、今日くらいは貴女を懐かしませてくれ。
 そのような気持ちでこの奇妙な酒盛りが始まり、もう何年が経っただろう?何も自室で酔えばいいものを、わざわざあの店に足を運ぶのは、少しでも貴女の残り香を感じていたいから・・・・・そう正直に告白しようものなら、やはり貴女は呆れてしまうに違いない。だがあの店がこの街にある限り、このバカ男二人まとめて笑い者にしても構わないから、こうして貴女を懐かしむ俺達の事を許して欲しい。
 変わりゆく街並みの中、あの店は流行から逃れるようにして昔の通りに佇んでいる。俺の思いもまた、昔の通りなのだ。そして健気に俺を背負うこの男の胸においても、貴女の存在は軽くないはずだ。
 変わらぬものは、人が儚む程に少なくは無い。
 
 
 
 気付けば、目の前にはあの劇場がある。
 昨日も目にし、明日も訪れるはずの建物が、今は何故か非常に懐かしく思えた。
 
 
 
 「大神・・・・・」
 耳のすぐ後ろから声が聞こえた。聞こえてくる声に、大神は歩を進めながら返事をした。
 「どうした」
 「あやめさんは・・・・・いい人だったな」
 それ以上の言葉は聞こえてはこなかった。アルコールを含んだ吐息とが首筋を撫で、その部分を熱いものが流れていった。涙、なのだろうか。大神は首筋に更に伝う熱い流れを感じながら、加山への言葉を捜した。一瞬、そのために足を止めようかとも思ったが、彼はあえてそうしようとはしなかった。
 
 見上げれば、朝焼けの空。
 
 「ああ」大神は背を揺すり、ずり下がった加山の体を支え直した。優しいが、確かに力強い声だった。「彼女は今でもいい人さ。これから先も、ずっとな・・・・・」
 
 その大神の声に、加山は「そうだな」と繰り返した。
 
 それは、その夜の二人が交わした、最初で最後の会話らしい会話だった。
 
 
 

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あとがき


酒にまつわるSSを書きたくてこの二人にご登場いただいたところ、こんな話が出来上がりました。
今までに書いた中でもかなりの異色作ですが、いかがでしたでしょうか?
かき終えて気付いたのですが、この話はあやめさんが主人公なのかも知れません。
大神達が彼女の記憶を求めてあの酒を求めたのであるならば、
彼女は酒に何を求め、何を思ったんでしょうか?
なにしろ、彼女は未だ謎の多い人物ですからね。
その辺りも探りつつ、楽しんでいただければと思います。