〜リクエスト企画「神埼すみれ特別編」〜

〜 ラストシーン 〜

 帝劇の地下、鍛錬室に力強い声が響いた。
 その声は二つ。指導者と、それに従う者の声だ。
 「よしっ!下、上、下・・・・遅いぞ!よそ見するな!」
 「はいっ!」
 「脇を閉めて!・・・・振りが大きいぞ、もっとコンパクトに!」
 「はいっ!」
 激しく声を上げているのは、帝国華激団隊長である大神一郎だった。既に何年も着古した道着に身を通し、鍛えぬいた見事な手捌きを見せつつ、その前に立つ者に厳しい指導を与えている。
 「ハァ・・・・・・!ハァッ・・・・・!」
 しかし大神の前に立ち、疾風の如く繰り出される大神の蹴りや拳を受けるその者の呼吸は既に乱れ、付いていくのがやっとという様子である。大神とは対照的な、下ろしたての真っ白な道着に身を包んだその身体は、この鍛錬室の雰囲気には不釣合いなほどに華奢で、大神の動きに付いていこうとするその動きからも、明らかに武道のたしなみの無い者だと判る。女の体。
 「どうした!?顎が出てるぞッ!?意識を保って!顎を引くんだ!」
 「はッ・・・・」
 大神の声に答えは無い。その口からはただ荒いだ息遣いが聞こえるだけだった。息する肩が大きく上下し、緊張に震える頬に幾つもの汗が伝い落ちる。そしてその汗が、長い睫毛の奥、その瞳の中に侵入すると、その意外な出来事と激痛に、思わず手の甲を目にあてがってしまう。その刹那だった。
 繰り出された大神の右の掌打が、丁度手をあてがった側の頬に炸裂した。それは大神にとって、決して全力ではない打撃だったのだが、打撃を加えた個所が大神の掌を離れると、一瞬後には、その身体は吹き飛ぶような勢いで床の上に崩れ落ちていた。
 「よそ事に気を取られるんじゃぁないっ!バカ野郎がっ!」
 仁王立ちに見据え、倒れた身体に罵声を浴びせる大神。
 痛さに堪えたのか、悔しさに堪えたのか。普段の大神からは想像も出来ない言葉に唇を噛み、女は無言のままフラフラと立ちあがった。揺れる前髪を払うと、先に打撃を受けた左頬に赤い痣が見えた。
 「もう・・・・・中・・・尉・・・も・・・う」
 喘いだ息遣いで言葉を紡ぐ女の姿を、大神は黙って見下ろしていた。
 「も・・・もう・・・」
 「・・・・・・」
 「もう一度・・・・・お願い・・・します」
 何処から取り出したのか、女は白い鉢巻を汗止めの代りに巻くと、震える手足で猫足に構えた。潤む瞳に涙は無く、ただ突き動かされるような情熱が宿るのみ。
 そしてその僅か下、真っ赤な痣の中にうっすらと見える泣き黒子。
 「・・・・・・」
 「・・・中尉!お願いしますッ!もう一度!」
 その姿を黙って見据えてから、大神は道着の佇まいを直すと、三戦(サンチン)に構え、女に向かって怒気を放った。
 「その気があるなら、ベラベラ喋ってないでかかって来い!」
 「はいっ!」
 疲れ切った身体を奮い立たせ、女が蹴りを放つ。
 高く上がった膝から変化していく上段回し蹴りは、大きな遠心力を加え、大神の肘の辺りに炸裂した。バシッという乾いた音が室内に響き、その音に見合った衝撃が女の足に伝わってくる。体重移動が成功した証だ。
 「踊りでも踊ってるつもりか!?もう一度!」
 「は・・・・はいっ!」
 煽られて繰り出される、左右の蹴りの連打。
 「もっと速く!もっと力強く!」
 両肩、両腕に蹴りの嵐を受けながらも、大神の声は更にその勢いを煽り立ててゆく。
 女の素肌に浮かんだ玉の汗は、上体が揺れる度にミストとなって宙に散った。更に流れ出て来る汗にも、乱れる道着にも女は気にする様子を見せなかった。左胸、襟元の近くに刻まれた刺繍の辺りに新しい汗の染みが浮かび、瞬く間に広がっていった。

 紫色の刺繍糸で縫い込まれたその名は、神崎すみれ─
        

     

 その日の夕刻、食事の席に集まった帝劇の一同は、すみれの姿を見て皆息を呑み、目を伏せた。
 赤く貼れあがった頬、拳闘家の如く指に巻かれた包帯、荒れた肌。
 着ている物も、普段に見なれたドレス姿ではない。劇団員が体力トレーニングの際に着用するトレーニングウェアを着ていた。しかしその上半身を覆うものはランニングシャツ一枚で、上着を着用していない。内出血による青い痣が、露出した肩から腕全体にかけて所々に浮かび、倒された時に肌を擦ったのか、真新しいかさぶたがうっすらと見て取れる。それがひどく痛々しかった。
 会食が始まっても、誰も口を開く者はいなかった。一度紅蘭が舞台稽古の話しをしようとさくらに持ちかけたが、さくらは視線を反らしただけだった。
 「すみれさん・・・・?」
 次に口を開いたのはかすみだった。
 「・・・・・?」
 名を呼ばれたすみれが膳から顔を上げる。
 「あ、その・・・寒くない?ほら、もうこんな時間だし・・・・・暖房入れてもらおうか?」
 思いやりの込った表情でかすみが声をかける。その様子に、その場にいた全員の注目が注がれた。すみれが何か言葉を口にするのを、そこにいた全員が待っていた。
 「いえ・・・けっこうですわ」
 「そうなの・・・・じゃあ、せめて何か羽織ったら・・・?」
 「・・・布が擦れると、ひどく痛みますの」
 「・・・・・ごめんなさい・・・・」
 「ありがたいのですけれど、気になさらないで下さるかしら?」
 すみれは言葉少なく申し出を断った。と同時に全員の注目が離れてゆく。皆がすみれの様子を気にしているのは、誰の目からも明らかだった。
 その空気に耐えきれなくなったのではないだろうが、早々と箸を下ろしたすみれが席を立つ。食器を片付けようと皿を重ね出したのを、マリアが制した。
 「いいのよすみれ。私がやるから」
 「・・・そう」
 皿から目を離し、部屋の外に歩き出すすみれ。足の運びがぎこちなかった。おそらく足を痛めているのだろう。ゆっくりと歩を進めながら、部屋を出ようとしたとき、大神が呼びとめた。
 「すみれ」
 呼び捨て去れた事など気づかぬように、すみれが足を止める。大神は会食中、ずっと膳から目を離さずに黙々と箸を進めていた。先程のかすみとのやり取りにも顔を上げる事は無かった大神が、ここで初めて口を開いたのだ。今度は大神に目が注がれる。
 「はい」
 「一時間後に鍛錬室で待ってるんだ。柔(やわら)の稽古をつけてやる」
 「・・・・はい」
 箸も止めず、目もあわせずに大神が言った。すみれはその言葉を聞き終えると、再び歩き出し食堂から姿を消した。未だテーブルに座っている者達はその様子を黙って見送っていたが、その姿が消え、廊下に気配がなくなった事を各々が確認すると、それこそ堰を切ったような勢いで大神に詰め寄った。
 「隊長!」
 「大神さん!」
 「大神さん、どういうことなんですかっ!?何がどうなってるんですかっ!?」
 さくらが、零れ落ちそうな涙を必死に堪えながら大神に訴える。
 「あたし知ってます!すみれさん・・・・毎晩、一晩中泣いてます!大神さん、どうにかしてあげられないんですかっ!?」
 「・・・・・・」
 「何とか言って下さい、大神さん!」
 すがるさくらを制し、今度は紅蘭が口を挟む。
 「ウチらはもう、すみれはんのあんな姿見とうない・・・・!なぁ、もっと他の方法があるんやあらへんか?」
 「そうでース、今の中尉サン、チョット厳しすぎます!」
 「隊長、ボクからもお願いだ。隊長の計画はあまりにも・・・・・・過酷だよ」
 口にする言葉は異なるが、皆の思いは同一だった。皆、すみれの身を案じ、そしてそれについての大神の説明と、態度を改めて欲しいと求めているのだった。
 しかし大神は、目の前に集まる全員を見つめながら、静かに、しかし力強く話し始めた。
 「特務士官候補生への入隊試験を受けると申し出たのは彼女だ・・・・
  これはすみれくんが決断した事だ。だから時間の許す限り、彼女の不得意分野である『格闘技』の訓練項目を補強する事が当面の目的なんだ。その間、完全に上官と部下という関係だけを保つという事が意識の面で重要に思えるし、そう申し出たのも彼女自身だ。
  念願がかなえば、常に特務に携わる事になるんだ・・・・・彼女にはその過酷さに耐える体力と、知識と、精神力が必要だからな・・・・」
 大神の言う事が本気であることは、その口調からも、その表情からも明らかだ。
 しかし大神の言葉が終わるのと同時に、食堂には再び激昂が交わされる。
 「そんな・・・・!そんなの無茶です!」
 「あやめさんやかえでさん達が通った道だ。ハンディは認めるが不可能ではない」
 「すみれはんは女優やで!?女優の顔にキズ付けるなんて、アンタ正気か!?」
 「彼女は帝劇の女優でいる事を既に辞めている」
 「なんですって?」
 「次回の公演を待たずに、彼女の正式な引退表明が支配人から・・・・米田司令から発表されるはずだ」
 「なんてこと・・・・」
 「試験は一ヶ月後に迫っている。時間は無駄に出来ないんだ」
 「試験をもっと遅くに・・・期間を延ばせないんですか?今年きりの試験というわけでは・・・・・」
 「・・・・・彼女の意思だ」
 言葉を終えた大神が席を立つ。その意思に揺らぎがない事を他の全員が感じ取ると、黙って道を空けた。歩き出す大神を留めようとする者は居なかった。それが不可能である事を、たった今大神の口から思い知らされたのだった。
 しかし唯一カンナが、大神が食堂を出ようとする直前に叫んだ。
 「アンタ・・・・自分が惚れた女をあんな目に合わせといて何とも感じねぇのかッ!?アンタはそんな人間だったのかよッ!?」
 「止めて・・・それを言わないで!」
 カンナの言葉に全員が息を呑み、その中の誰かが悲痛に叫ぶ。しかしカンナは止めなかった。
 「うるせぇよ!みんな知ってるよ!アンタが神崎に行けばいいんじゃねえかっ!?それで万事上手くいくんじゃねぇのかっ!?
  さっきから聞いてりゃ『すみれの為すみれの為』って・・・・・フザけんなよ!あれが男のする事かよ!?
  そんなにアイツと結婚したけりゃなぁ・・・・軍も帝劇もさっさと辞めて、アンタが神崎に行っちまえばいいんだ!!」
 カンナの叫びを、大神は廊下の奥で聞いていた。
 しかしそれでも大神の歩は止まらなかった。
 止める事は、出来なかった。

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