〜リクエスト企画その2・マリア編〜

遥かなる夜

 

 「摩天楼の都」と謳われるNYは、夜ともなればその様をさらに鮮やかに輝かせる。
 無数のパブはアルコールと音楽で満たされ溢れ返り、昼間の何倍もの人間たちが一夜の夢を謳歌する。
 そしてその中核をなすショー・ステージ・レストラン「グレート・ウォール」。
 そのビルの前にマリアはいた。
 ネオンの海の裏側で、マリアはのグレート・ウォールの裏口のドアに背を置きながら、灰色の夜空を見上げていた。裏口が面している細い小路には人通りは少なく、ネオンどころか街灯すら灯りをともしてはいない。
 「・・・・・」
 時折マリアの足元を冷たい風が吹き抜けてゆく。春が近づいたとはいえ、底冷えのする夜だった。
 しばらくすると、マリアの視界の隅に人影が現れた。マリアはその方向に顔を向けたが、すぐに顔を伏せた。表通りから漏れてくるネオンによって明らかにされた人影・・・ポマードを撫で付けた黒服風の男・・・は、マリアの正面まで来ると足を止めた。
 マリアは一瞬いやな予感を憶えたが、その予感は直ちに的中した。
 「ねえちゃん幾らだい?」
 ・・・またか。マリアは短くため息をついた。
 マリアが商売女に間違えられるのは、これが初めてではなかった。若い女がこんな裏通りで立ちんぼをしていてはそんな風にしか見えないのはマリアにも理解出来たし、事実、今マリアが立っている裏小路には、目を凝らせば何人もの娼婦が暇をもてあましていたからだ。
 声を掛けてくる方からすれば、間違えるのに無理も無い。
 だからマリア自身もその事についてあまり大げさに考えることはなかった。たいていの男達は適当にあしらえば帰ったし、マリアがそうして立っている時間自体がさほど長いものではなかったからだ。
 「なぁ・・・・」
 「勘違いしないで。人待ちなの」
 しかし、今日という日はいささか勝手が違っているようだった。マリアが待ち続けている人物はなかなか姿を現さなかったし、男はどこまでもしつこかった。
 「お前、アメリカ人じゃないな・・・?何処だ?ロシアか?」
 「期待を外して悪いんだけど、帰ってくれないかしら?私は売り物じゃないのよ」
 イラついた声をあらわにするマリアだったが、男はにやけ顔をさらにだらしなくさせてマリアを口説きにかかった。歪んだ襟元には蝶ネクタイがぶら下がり、吊り上った口元からは(マリアにはその顔がとても『笑顔』には見えなかったが)、ヤニに汚れた歯が顔を覗かせている。
 「外から来たんじゃカネが入るんじゃないのか?ドルで払ってやるぜ?」
 「他を当たりなさいよ、しつこい人ね」
 そう言ってマリアは、男に背を向けた。しかし男がマリアの肩に手を置いてそれを拒んだ。
 「それが性分でね。『アゲイン・アンド・アゲイン』ってやつさ。意味判る?」
 男の顔にさらに笑みが広がっていく。本人は笑っているつもりなのだろうが、その結果は男の顔をさらに醜悪なものにさせていた。だが男はそんな事を気にする様子も無く、今までポケットに突っ込んでいた片手をマリアの顔の前にかざすと、指を何本か突き立てた。
 「カタギなんだろうが今日は俺を選べよ、ロシアのお譲ちゃん?悪い思いはさせないぜ。300だ」
 「・・・・馬鹿にしないで」
 マリアの声が裏路地に凛と響いた。諦めが怒りに変わり、徐々に眼光が鋭くなるのが自分でも判った。だが男は立てた指の数をさらに増やして食い下がる。
 「なら400!450でもいい!次からは俺を買いたくなるような思いをさせてやるからさぁ?気の済むまで何度でも・・・・」
 男の言葉はそこで途切れた。そして、それまでとはまったく異なる、ひどく慌てた口調で喋りながら、徐々にマリアから離れ始めた。男の様子が違うのはそれだけではない。それまでしまりの無かった男の視線は今や見開かれんばかりになっており、そしてその視線は目の前にいるマリアではなく、マリアのはるか後方にある「何か」に釘付けになっているようだった。
 「や、いゃあ!なんだかヒマそうだったからよ、話してただけだって!それに、俺も忙しいんだ。お互い忙しそうだから、もう忘れようや!なっ!?」
 男は何度もどもりながらそう言うと、マリアに背を向けて一目散に裏路地を走り出し、あっという間に見えなくなった。
   
 男が見えなくなったのを確認すると、マリアはふっと小さなため息をつき、それまで男が見ていた方向に声を投げかけた。
 「遅いわ」
 どうやらその声が聞こえたらしい。路地の奥、マリアの視線の先で何かが動き、たちまち見慣れた男の人影となった。影はマリアの前まで歩いてくると、そっとマリアを包み込み、マリアの頬に口付けた。
 「すまない、道が混んでいて・・・・許してくれるかい?」
 広げた腕がマリアを包み込むと、マリアは男の胸の中に身を預けた。厚い外套の上からも伝わってくる体温と優しさが、それまでのマリアの緊張を解きほぐし、徐々に安らかになってゆくのがマリアにも判った。そして緊張が完全に解れたところで、マリアは男の顔を上目遣いに見上げながら、やや攻めるような口調で喋りだした。
 「もう、遅いわよユーリー・・・私また間違えられたのよ?」
 「だから誤ったじゃないか、道が混んでいたって。でも今日は普段よりも早かったはずだよ?」
 「今度からもっと早く来て頂戴?もう私あんな風に声を掛けられたくないもの」
 「あぁ、判ったよ。僕だって君がよからぬ連中とよからぬ話で盛り上がっているところに出くわしたくは無いからね」
 「もう!盛り上がったりしないわよ、バカ!」
 先ほどの怒りがまだ収まりきらないのか、一方的に憤慨するマリアだったが、「ユーリー」と呼ばれた男はそれを一向に意に介さないようだった。
 「大体にして、君がこんな衣装で立ちんぼしてるのがイケナイよ」
 そう言うとユーリーは、それまで手に持っていたマリアのコートを彼女の両肩に掛けた。身長を考慮しても、女性にしては張りのあるマリアの肩幅がコートですっぽりと包まれる。マリアはコートのボタンを掛けながら、それでもまだぶつぶつと不平を続けた。
 「しょうがないじゃない・・・・新入りは自分のロッカーもらえないんだから」
 今となってはコートに隠されてしまったが、マリアがそれまで着ていたのは、黒の生地をベースに金のラメで龍の刺繍を施されたチャイナドレスだった。ただでさえプロポーションが強調されるチャイナドレスだが、マリアがそれを着用したとなるとその魅力はまさにピンナップガール顔負けで、金髪にチャイナドレスの白人という多国籍ムードも漂い・・・・・早い話が、どこからどうひいき目に見ても『そのスジの女』にしか見えなかったのである。
 ショー・レストラン「グレート・ウォール」のショーガールであるマリアは、毎晩この格好でユーリーが自分を迎えに来てくれるのを待ち続けているのだった。
 それにしても、ユーリーの言うことにも一理の分があるのは、マリアも認めざるを得ないだろう。 
 
 マリアがコートのボタンを掛け終わると、二人はネオンが明るい表通りへと同時に歩き出した。
 「ちょっと」 
 歩き出したマリアがユーリーの腕に手を絡めようとして、あわてて立ち止まった。 
 「何かな?」
 いぶかしがるユーリーに、マリアは厳しい視線を向け、ユーリーの腕を取った。
 「これ、早く仕舞ってくれるかしら?」
 マリアが「これ」と呼んだものは、ユーリーの手の中にある六連発のリボルバーだった。 
 先ほどの黒服は、ユーリーの手にこれが握られているのに気づいて逃げ出したのである。
 「あぁ、すまない」ユーリーはそう言うと、その拳銃を自分のコートの下のホルスターに入れた。「これで大丈夫、だろ?」
 マリアは了解したように頷くと、ユーリーの腕に自分の腕を絡め、再び歩き出した。
 「持ち歩かないでって、言ってるじゃない」
 「判った・・・いや、判ってるよ」
 ユーリーは、組んだマリアの手に、もう一方の自分の手を乗せた。それまで拳銃を握っていた手から、コート越しにユーリーの体温が流れ込んでくるのがマリアにも判った。 
 護身の意味もあるが、ユーリーが拳銃を手放せないでいるのは、多分あまりにも長い間引き金を引き続けていたからだろう。マリアはそう理解していた。しかし理解はしていたが、それはマリアにとって・・・おそらくユーリーにとっても・・・早く忘れてしまいたい事実だった。
 「引き金を引かなくても、この街には『自由』があるのだから」
 その言葉に、ユーリーは黙って頷いた。

 「お詫びに食事をしよう。さっき、地中海料理の店を見つけたんだ」 
 表通りまで出てきたところで、ユーリーが提案を出した。だがマリアはその言葉に眉を寄せる。
 「呆れた人ね」
 「何が?」
 「それで遅れたんでしょう?」 
 ユーリーは料理好きだった。
 おそらくウィンドウのメニューを物色して時間を潰していたか、ウェイトレスと料理の話でもしていたに違いない。
 薄情者の浮気者と罵ってやっても良いが、ここは交渉に応じてやろう。
 マリアはそう解釈すると、探るような笑顔を作ってこう言った。
 「じゃぁ、VIP待遇で頼むわよ?ガードマンさん?」
 「かしこまりました、お嬢様?」
 悪戯っぽいマリアの言葉に、大げさなゼスチュアでおどけるユーリー。そんなユーリーの腕に、マリアは一層寄り添って歩いた。二人の間の距離は無くなり、ユーリーの体温がより暖かに感じられた。 
 それは彼女にとって、紛れも無い幸せの瞬間だった。

 

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