昨夜、夢を見た。
まだ若い私がいた。そして、あの人がいた。
私たちはただ、じっと見つめ合っていた。
あの時はそれだけで良かった。
今となってはそれさえも適わない。
どうせ夢なら、あの人の体に抱かれたかった。
夢見ても叶わぬ夢と悟ると、ひどく滑稽に思えて目が覚めた。

〜 X’masGift 〜

 太正14年。12月─
 銀座を行きかう雑踏の波は激しく、帝都全体が年末に向けて動いているのが良くわかる。皆今年に残された日数を指折り数えては、やるべき事に奔走しているのだろう。師さえ走ると書いて『師走』とは、まことによく言ったものである。
 「なるほど、面白い解釈ですね」買出しの途中にそんな話を大神から聞きながら、マリアは感心したように頷いた。
 「先人のセンスというのも、なかなか洒落たものだろう?」大きな紙袋を四つばかり抱えた大神が、会話を繋げた。「いよいよクリスマス公演も近づいてきたし、俺たちもこれからますます忙しくなるな」
 荷物に視界を邪魔されてろくすっぽ前も見えていないにもかかわらず、大神の足が止まる事は無かった。マリアは何時か大神が躓いて転びでもしないかと心配していたが、今日の買出しの荷物は全て大神に持たせていた。無論彼女が手伝いを申し出なかった訳ではない。彼女が荷物に手を伸ばそうとすると、大神が頑なにそれを拒否するのだった。
 「主演女優を筋肉痛になんてさせたら、帝劇の皆に怒られるよ」
 そう言って大神は額に汗を浮かべながらも笑って見せるのだった。今日の買出しは日々の事務用品が数点と、売店の飾りつけに使うクリスマス向けの小物類だった。一品一品はそれほど重くもないのだが、紙袋四つに満載ともなればそれなりの重さになる。だとしても、まさか紙袋の一つや二つで筋肉痛などになろうはずも無いのだが、大神が首を縦に振らないのだから仕方ない。今やマリアは、モールやらリボンやらが入った手提げを申し訳程度に持って隣を歩くしかなかった。
 帝劇にて毎年公演されるクリスマス公演まであと数日。今年の主役は、マリアが担う事になっている。それを指名したのは大神だった。全員がそろった中で大神に見つめられながら名を呼ばれた時、マリアは歓喜と同時に、なんとも形容しがたい不安に陥った。それは重要な役回りに対する不安などではなかった。その場ではなんとか前向きな決意表明をとりつくろった彼女は、足早に自室に戻るとそのままベッドに突っ伏した。そして奥歯を食いしばりながら、押し殺すようにして涙したのである。
 その時、彼女の手にはロケットが握られていた。冷たい鎖の感触が、マリアを過去に引き戻した。
  

 『生き残ってくれ、俺の為に』
 かつて、そう言い残して死んだ男がいた。私は彼を愛した。だが、彼が私を愛したかは定かではない。神はそれを確認する時間を・・・・ことさら、平安の時間を・・・・与えてはくれなかったのだ。その気持ちを初恋と呼ぶ事が許されるのならば、私の初恋の舞台は銃弾と血しぶきによって幕を下ろした。今となって彼に再会する手段と言えば、凍てついたロシアの大地に跪き、冷たい墓石に口付けを送るしかない。
 それは事実。過ぎ去った過去。それはわかっている。
 だが私は彼との恋を終えることが出来なかった。私の身の内に巣食った炎は、時に激しく、時に狂おしいほどこの身を焦がした。実に馬鹿げた話だ。恋人と名乗る事も出来なかった人間を、死してなお愛しているというのだから。自惚れて言うのなら、死んでしまった彼もこんな私を笑うだろう。それもわかっている。彼は私をかばって死にはしたものの、私を苦しめるために死んだのではない。私がいつまでも過去の記憶にすがり付いている事を彼も望んではいないはずだ。
 今、ここに私を愛するという男がいる。大神一郎。私の隊長。新しい隊長。
 大神の腕は優しかった。彼の腕に包まれたとき、私は彼からかつて私が愛した男とは別の名を持っているとは思えぬほどの、共通した優しさと力強さを感じていた。かつて一度も味わう事の無かった愛されているという実感が私の内に生まれるまで、それ程長い時間はかからなかった。それは未だ体験した事の無い、とても優雅な気分だった。愛されているという実感は、時に私を有頂天にさせたりもした。やがて私は大神の為に時間を割くようになり、二人きりでいる時間を満喫し、それを楽しんだ。私自身がそれを恋と呼ぶ事を、もはや私も疑おうとはしなかった。
 しかし、どんなに二人の時間を重ねても、私の内に潜んでいる炎の揺らめきは止む事が無かった。大神が私の瞳を見つめる時、私はその澄んだ瞳の中に懐かしさを求めていた。私の詮索は時と場所を選ばなかった。一同と食事をしている時、訓練中、夜の見回り、廊下をすれ違う時の仕草・・・・・それらの中にある記憶との違いを目の当たりにした時、私の心には小さな、しかし拭いようの無い落胆が生まれるのだ。
 私は未だ、過去に囚われているのではないだろうか・・・・・?
 私は、死んでしまった男の身代わりを欲しているのだろうか・・・・?
 それを恋と呼ぶ事が許されるのだろうか・・・・?
 大神に愛され大神を愛したとしても、私はいつか大神を・・・・
  
  
 突然名を呼ばれ、マリアは我に帰った。一瞬自分が雑踏の中にいる事を忘れていたために、危うく他の通行人とぶつかりそうになったが、寸でのところで止まった。
 「マリア、顔色が悪いよ?」声は隣を歩く大神からだった。相変わらず荷物を重そうに持っている。「人込に酔ったんじゃないのか?」
 「そうですか?私は別に・・・・」
 マリアは考え事を悟られぬように平静を装った。それを見た大神は、マリアの見たままを受け入れた。「そうか・・・・でも、此処で少し休んでいかないか?」
 大神が視線を送ったのは、レンガ造りの壁と細やかな装飾の看板をあつらえた喫茶店だった。マリアは大神に気を使わせてはいけないと思い、首を左右に振った。
 「いえ、平気です。荷物もありますし、ここは急ぎましょう」
 「美味しいんだって。ここのコーヒー」
 「・・・・えっ?」
 意外な言葉に驚いたマリアに、大神は続けた。
 「由里くんに教わったんだけど、今流行の店だそうだよ。コーヒーとケーキが一番の売りらしい。いつか君と来ようと思って、なかなか誘えなかったんだ。せっかく外にいる事だし、寄っていかないか?」
 マリアは結局、照れたように笑いながら言う大神に従う事にした。何故なら休憩が必要だったのは、疑いようも無く大神の方だったからである。

 店の中には大神達以外の客も無く、蓄音機がジャズの音を立てていた。通りに面した窓際に席を取り、二人を案内した女給にコーヒーとケーキの注文を取らせると、大神はくつろいだ様子で外の景色に目をやった。
 マリアは少々困ってしまった。これはいつもの事なのだが、こうして突然二人っきりになってしまうと、何を話していいものやら迷ってしまうのである。普段の見回りを二人で行っている時などはさほど感じられないのだが、いざ意識してしまうと、この緊張感はなかなか消えてくれないのだ。徐々に鼓動が早くなるのが自分でも判った。
 「マリア」
 「はっ!?」
 不意に呼ばれて、マリアはとっさに軍隊調で答えてしまった。その声の大きさに何事かと女給が顔を覗かせたくらいである。大神も二の句を継げずにぽかんとしている。マリアの中に後悔の波が瞬く間に押し寄せてきて、更なるプレッシャー彼女に与えた。
 「あ、その・・・・・申し訳ありません。なんでしょう?」
 「え、えっと・・・・・」マリアの様子に驚いてしまった大神が、気を取り直すように椅子に座りなおして言った。「さっき、何か悩んでいるようだったね」
 「そう・・・・でしたでしょうか」
 マリアははぐらかそうとしたが、ごまかしきれてない事が自分でも判った。大神はその表情を見ながらテーブルに両肘を置き、マリアの方へと身を乗り出した。
 「マリア」
 「はい」
 「もしかして、これからの事にプレッシャーを感じているのかい?」
 マリアの背筋が凍った。大神という男は、何も見ていないようにして(いや、事実本当に何も見ていないのだが)人の心を見抜くような台詞を出す事があるのだ。マリアはその驚きを何とか表情に出すまいと努力したが、無表情をとりつくろうのが精一杯だった。だが大神との関係について、まさか相手の口から話が出てくるとは・・・・。
 ・・・・もしかして公演の事を言っているのだろうか。だとしたら半分は当たっている。顔を伏せるようにして、マリアは微かに頷いた。
 「そうか・・・・」
 大神は深く息をついてそう言うと、カリカリとうなじを掻いた。暫く沈黙が続いた。今まで蓄音機から聞こえていた曲が途切れ、別の旋律を奏で始めた。
 先に口を開いたのは、マリアだった。
 「私・・・・どうしたらいいんでしょう・・・・」
 大神の質問が二人の関係の事にせよ舞台の事にせよ、これは両方に通用する返答だった。舞台の演出や演技についてマリアが少なからず悩んでいる事には間違いが無いからである。それにこの返答対する大神の応対によって、大神の意図するところが判るかもしれないと踏んだからだ。二人の前に中深煎りのネルドリップで満たされたコーヒーカップが運んばれて来たので、二人は互いにそれを口にしながら会話を続けた。
 「大丈夫だよ」
 「大丈夫・・・でしょうか」
 「君は君の事だけを考えてくれればいいんだ。今はそれが大事なんだよ」
 「そうでしょうか・・・・隊長は・・・・」
 「えっ?」
 「隊長は、本当にそれでいいとお思いなんですか?」
 「いいって・・・・何故それじゃダメなんだい」
 「何故って・・・・・私は・・・・・」 
 「君を選んだのは俺だよ。だから、この俺を信じてくれないか?」
 「隊長・・・・」
 「心配ないよ、マリア・・・・俺がついてる。だから、俺について来てくれ」
 「・・・・・」
 ・・・・やはり、芝居の事、なのだ。
 大神の言葉を聞いたマリアは、あえてそう思おうとした。しかしその時、大神は突然マリアの手を取ると、ポケットの中から何かを取り出してそれを強引にマリアの手の中に握らせた。指輪だった。
 「ついて来て、くれるね?」
 真っ直ぐにマリアを見つめる大神。
 「・・・・・・・」マリアは答えられなかった。指先で摘んだ指輪は、窓から差し込む日差しにキラキラと輝いていた。それは美しかった。しかし、マリアには何故か、その美しい指輪を自分の指に通す事も、これ以上見つめている事も出来なかったのである。「隊長」。
 「うん?」
 「ありがとうございます・・・・・でも私は・・・・受け取れません・・・・・」
 「マリア・・・・・」
 嘘である。
 本当は、マリアは嬉しかったのだ。しかし彼女の胸の中には、それ以上に押し止まる気持ちがあったのである。それは迷いと言うよりも、恐怖心だった。それも、未知なる未来への恐怖心ではない。失われつつある過去への恐怖心だった。
 蓄音機の曲がまた切り替わった。ピアノが主旋律を取り、追って入ってきた4ビートが異国の流行歌を歌い始めた。

 ”─昨夜、夢を見た。
 まだ若い私がいた。そして、あの人がいた。
 私たちはただ、じっと見つめ合っていた。
 あの時はそれだけで良かった。
 今となってはそれさえも適わない。
 どうせ夢なら、あの人の体に抱かれたかった。
 夢見ても叶わぬ夢と悟ると、ひどく滑稽に思えて目が覚めた─”


 普段なら何気なく聞いている安っぽい歌詞が、今はどぎつい程に色濃く聞こえた。蓄音機がフルコーラス歌い終わったところで女給がやってきて、蓄音機から針を上げレコードを取り上げた。店はそれきり静かになった。
 「マリア」沈黙に耐え切れなくなった大神が、息を呑むようにして言う。「俺との今までの関係で、嫌な事でもあったのかい?」
 「いいえ・・・・・貴方の事は好き・・・・でも・・・・だめなんです・・・・・」
 「だったらマリア、俺は─」
 大神の言葉が途切れた。その原因はマリアにも直ぐにわかった。いつの間にか彼女の目からは、彼女自身も気づかぬうちに幾粒もの涙が零れ落ちていたのである。大神の表情に影が差した。彼はマリアの涙から懸命に何かを感じ取ろうとしていた。しかしそれも叶わぬとなると、色濃くなった影は落胆の色へと変わっていった。
 「・・・・・そうか」大神はマリアの掌から指輪をつまみ上げると、自分のポケットに入れた。「わかった・・・・・もっと時間を掛けよう。それも必要だ。俺達は若すぎるかもしれないし、もっと色々な事を体験すべきなんだろうし」
 大神はもうそれ以上何も言わず、残りのコーヒーをすすった。マリアもまた何も言わず、頬を伝う涙の流れを止めようと必死になった。しかしマリアの意に反して、涙はいつまでも流れ続けた。
 
 隊長・・・・。
 貴方の事は好き。私だっていつか貴方と暮らしたいと思ってる。
 でも、貴方を身代わりの様に思ってしまう今の私が許せないんです。
 だからこの気持ちが消えるまで、待ってください・・・・・
 いつか・・・・
 
 神様・・・・私はわがままでしょうか・・・?
  
 二人は再び通りへ出た。人通りは相変わらず激しく、心の揺らめいた二人をいともたやすく飲み込むと風景の一部としてしまった。冷え込んだ夕方の空気に白いものが混ざり合い始めた頃、二人の耳にどこからとも無く賛美歌の声が聞こえてきた。
 「・・・・いつか二人で、聞きたいね」
 マリアは黙って頷いた。
 
 そしてもうすぐ、街はクリスマス・・・・・。
 

End
このSSは山崎あやめさんが主催されております
MARIA CHAT2002X'masDinnerShow」に参加しております。
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