大神一郎残業日報
負けるな!大神くん!の巻

 大神の一日は忙しい。
 でも、一日に少しだけ、大神の時間がある。
 夕食後、その一日の仕事をまとめてから夜の見回りまで、数時間の空き時間が大神の貴重なプライベートだ。
 しかし、その貴重なプライベートも・・・・
 「はーい、お後はパンフと会報でーす。こっちに並べてくださいねっ」
 
「は〜い〜・・・・っと?重いなぁ、コレ」
 
「新刊ですからね、傷つけないでくださいよぉ」
 
「・・・・は〜ぁい〜」
 ・・・・往々にして、何某かの「侵略」を受けることが多い。
 今日も今日とて、大神は椿と、売店の品出し作業を手伝わされていた。
 「おーがみさーん?終わりましたかぁー?」
 カウンターの表側から元気の良い椿の声が飛んでくる。しかし大神は、奥にあるパンフレット用の大型スタンドに、次回公演用の新しいパンフレットを立てる作業に没頭していて、その声に気がついていない。
 いや・・・・言いなおそう。
 作業に没頭しているのではなくて、もはや集中力が途切れかかっていて、答えられる状態ではないのだ。何しろ今日は飯抜きで、しかも3時からこの作業をやらされているのだから、無理もない。既に足取りが怪しくなっており、目がチカチカしてまともに視線を据えることが出来ない。何時間も機械的に動かしてきた体の「惰性」だけが、その作業を可能にさせているのである。
 「おーがーみさーん?」
 「・・・・」
 「大神さんっ!」
 返事がない。業を煮やした椿は大神のすぐ後まで近寄ると、仰け反るほどに深呼吸してから、叫んだ。
 「敵襲だああぁぁぁっ!!!!」
 
「へ?は、花組出動せよ!?・・・・ん?あれ?」
 椿の嘘警報によってようやく正気を取り戻した大神は、まるで今まで昼寝でもしていたかのように目をこすりながら辺りをキョロキョロと見まわした。そして自分の頭のすぐ後ろに立っている椿を発見すると、いかにもきまり悪そうに鼻の頭を掻いた。
 「ごめんね、椿ちゃん。ちょっと・・・・」
 「『ちょっと疲れちゃって』、ですか?」
 大神の語尾に被るようにして言う椿の言葉に、大神は返す言葉もなく頷いた。苦笑いを浮かべたその顔が、今日は嫌に老けて見える。椿は両の手のひらを広げて「まぁまぁ」のゼスチャーを見せると、大神に言った。
 「いいんですよ、もう。大神さんのお陰で終わりましたから」
 「あ、そうなの?」
 「そうです。全部片付きました!」
 「・・・・終わったぁ〜」
 大神は、辺りの空気が入れ替わるほどのため息と共にその言葉を吐き出すと、膝からがっくりと崩れるようにしてその場にへたり込んだ。
 「ちょ?ちょっと、大神さん!ずいぶん無理してたんじゃないですかぁ?言ってくれたらよかったのにぃ」
 「う〜ん・・・<言ったら何とかしてくれたってたのか?
 「全くもう、しょうがないですねぇ」
 「ははは・・・<かんべんしてくれよ。こちとら訓練明けの飯抜きだぞ?知ってて言ってんのか?コラ
 もちろん後半の部分は口に出してない。大神の心の声である。が、椿以外の誰かなら、その口調と表情から容易に読み取ることが出来ただろう。
 そんな大神の目の前に、椿は一枚の紙を取り出して見せた。
 紙と思ったそれは、プロマイド裏地だった。裏返しにしてあるので、大神には誰の写真なのかは見えていない。
 「これ」
 「何?」
 不思議そうな視線を向ける大神に、椿は満面の笑みを浮かべてこう答えた。
 「ご・ほ・う・び・です」
 「ご褒美・・・・?」
 「これ、今度の公演の為に撮り下ろした、新柄のプロマイドなんですよ♪」
 「あ、そうなの?くれるの?」
 「はい♪手伝っていただいたお礼ですから、どうぞ♪」
 「あぁ、じゃあ、もらおうかな。椿ちゃん、ありがとね」
 大神は床に腰を下ろしたまま、椿からプロマイドを受け取ろうと手を伸ばした。しかし椿は、大神の手がプロマイドに近づこうとするたびに、ひらり、ひらりとその手を動かして、なかなか大神に手渡そうとしない。
 「ちょっと、椿ちゃん;;動かないでよっ;;;」
 ひらり、ひらり。
 「椿ちゃんってば!」
 「アハハ♪アンヨは上手、転ぶはお下手?」
 椿は悪戯心たっぷりの笑みを浮かべながら、プロマイドを持った手を右へ、左へと動かしている。そして一歩、また一歩と後ずさりを始めた。それに引かれるようにして、大神の腕も徐々に前へ伸び、やがて体を前傾させ、腰を浮かせ、終いには立ち膝の状態でヨチヨチ歩きをし始めた。まるで餌に操られるサーカスの猛獣の如き仕草である。もはや誰の目で見ても、とても帝国軍人のやることとは思えなくなってきた。椿はそれを面白がっているのか、その手の動きを未だにやめようとせず、それどころが更に派手に動かしていった。それがいけなかった。
 大神が立ち膝の状態から中腰にまで体を持ち上げたとき、その「悲劇」が起こった。
 既に過度の疲労と空腹で、通常の運動神経と感覚を失い始めていた大神の体は、目の前で飛びまわる椿の動きについてゆくことが出来なくなっていた。にもかかわらず大神が膝を伸ばそうとした瞬間、まるで間接が抜け落ちたかの様に、体が前方へがっくりと崩れ落ちた。自らの体に生じた突然の出来事に反応できず、大神は崩れ落ちる下半身を制止することができない。更に悪いことに椿との距離はほとんどゼロに近くなっており、、今まで必死で椿の手の先を追いかけてきたその両腕は、今尚懸命に空間をさ迷っていたのだ。
 完全に統率を失い、分断された大神の体。するとどうなるか?
 「うわわっ!?」
 
「きゃぁっ!?」
 説明する方法は様々あるのだが、結論から言うと、売店のカウンターの中に大神の体が再び床に這いつくばった瞬間、その腕の中には、小さな椿の体がすっぽりと包み込まれていたというわけだ。
 「痛っ!いったーい。ひどいですよぅ、大神さん」
 「いててて・・・つ、椿ちゃんがいけないんだろっ。じっとしてないんだから」
 期せずして、床から数10センチの距離での言い争いが始まる。
 「早くしてくださいってば!」
 
「だから動かないでよっ!・・・・ん?あれ?」
 
「や、やだ大神さんったら、無理に引っ張ったらだめですっ!」
 
「だからジッとしててよ椿ちゃん!ちくしょ、このたすきが邪魔で・・・・」
 袖のボタンが絡まっちまったんじゃないか。
 と、大神が言おうとしたその時、それを制止する声が上がった。
 「きやぁああああああああああ!!!!」
 声と言うより、それは悲鳴だった。
 未だに椿の体に覆い被さっている大神が、首だけを180度ひねくらせて振り返ると、目をまん丸に見開き、驚愕に震えるかすみの姿があった。
 「あ、かすみさん」
 「あ、かすみくん」
 慌てた椿と大神は、一瞬の後に互いにたたずまいを正すと、そろって立ちあがった。
 どうやらかなりの確立で、かすみにこの状況を誤解されてしまったらしい。そして、今すぐにそれを解決するべく、これまでの「ヒッジョーに」ばかばかしい経緯を説明しなくてはならないだろう。気をつけの姿勢でかすみの前に並んだ大神と椿は、全く同じ事を考えながら、横目で見詰め合っていた。
 しかし、まず大神が第一声を上げようとした瞬間、
 「大神さん・・・・不潔!!!」
 と叫んで踵をかえしたかと思うと、そのままダッシュで事務室の方へと消えてしまった。
 「・・・・あっちゃぁ〜」
 コレは・・・・
 ひっじょーに・・・・
 ややこしいことになっちまったのかも知れない・・・・
 混乱した状況の中、唯一の真実を頭の中で繰り返しながら、大神は先の言葉を繰り返していた。
  

 それから大神がどうしたかというと、まず、コトの成り行きに慌て始めていた椿を落ち着かせ、その椿に出来るだけ冷たいアイスティーを三つ用意させた。もちろん、これはかすみの所へ持ってゆくためである。一つ余計に作らせたのは、かすみが戻ったであろう事務室に「歩くゴシップ」こと由里の姿があることを心配してのことである。
 (ここはひとつ、雑談する感じでナチュラルに・・・・・OK、そうすりゃ誤解だってわかるさ)
 大神は一人、キンキンに冷えたアイスティーを乗せたトレイを手にして事務室の前に立つと、小さな深呼吸をしてから声をかけた。
 「ち、ちょっといいかな・・・・・?」
 「!」
 「あの、誰かいない?・・・・・かすみくん?」
 「!!」
 ドアの向こうで気配が膨らむのがわかる。
 どうやら、かすみは先ほどのショックから落ち着きを取り戻していないらしい。かすみが放つそのオーラは、閉ざされたドア一枚の存在をもかき消すほどだ。事態は非常に、ひっじょーにヤバイ方向へ流れようとしていることが、容易に大神にも理解できた。大神は自分でも気づかぬほどの小さな声で呟いた。一言。ヤバイ、と。
 大神が途方にくれていると、突然にドアが開いた。
 勢いよく開かれたドアのノブを握っていたのは、やはりかすみだった。頬をやや紅潮させ、その眉間には、まるで鷹か鷲を想像させるような鋭い縦皺が深深と刻まれていた。その表情はかすみを知らぬ誰かが見たとしても、「強烈な不快感を表すもの」以外の何物でもないことが直ちに読み取ることが出来ただろう。
 「あの・・・・」
 「何ですか!?」
 「あ、アイスティーを・・・・作っててもらったんだけど、その・・・いっしょに飲みたいな、と思って・・・・」
 大神がやっとのことでそう言うと、開いたドアの前に仁王立ちになっていたかすみは僅かに身を脇に寄せ、大神を招き入れた。
 「あ、ありがとう」
 「・・・・・」
 しかし、どうにか招かれたとはいえ、それだけでその誤解が解けたわけではない。トレイを手に持ったまま、大神は篭るような口調で話し始めた。
 「あのさ・・・さっきのコトなんだけど・・・・」
 「!」
 その言葉を聞いたかすみの表情が更に険しくなる。瞬時にそれを見て取った大神だが、かすみの激情が爆発するほうが早かった。
 「私大神さんのこと尊敬してたのに!見そこないました!!あんな小さい娘に・・・」
 「ち、ちがうよ!」
 「じ、自由恋愛は尊重しますけど、もっと立場とか年齢とか、条例とか児童ポル○法とか考えてください!」
 「一番最後のは余計だろ!?」
 「じゃあ、あの状況をどう説明するんですか!?大神さんが椿ちゃんを・・・・」
 「別に押し倒したりした訳じゃないよっ;;;」
 「・・・・私何も言ってないのに・・・やっぱりそうだったんですね!?不潔だわっ!!」
 「ちがうんだってばぁ〜!!!!」
 どうにもらちがあかない。苛立った大神はトレイをテーブルの上に置くと、どうにかかすみに詰め寄ろうとするのだが、かすみは両手を胸に当て、大神が近づくのを拒絶してみせた。もはやその対応が完全に『犯罪者』扱いである。終いには事務室の机を中心にしての鬼ごっこが始まってしまった。
 「違うんだ!誤解なんだってば!!」

 「私大神さんのことわからなくなりました!!」
 「だからっ・・・・・!?」
 頼むから、俺の話を聞いてくれ。
 ただそれだけのことなのに、大神の行動はとことんまで裏目に出た。事務室内を逃げ惑うかすみを自由の利かない体で追い、机や椅子には躓き放題。届かない所においていたはずのアイスティーも倒してしまい、床一面が水浸しになってしまった。そしてその上に書類の束が散らかって・・・・・さらに、ドアが開いた。
 「大神くん、かすみさん?いるんでしょ?」
 椿から事のいきさつを聞き、様子を見るためにかえでと椿がが部屋に入ってきたのは、濡れた書類に足をとられた大神とかすみが、折り重なるようにして床に突っ伏したのとほとんど同じだった。
 もし、二人ががもう少し早く、一瞬でも早く入ってきてくれたら、一連の誤解は解けたのかもしれない。
 しかし・・・・・・
 「・・・・・」(×4)
 しばらくの間、何とも言い難い沈黙が四人を包んだ。
 氷を飲みこんだような表情で立ち尽くし、濡れて乱れる服もそのままにして床で絡見合う大神とかすみを、ただ呆然と眺めていた椿とかえで。
 もつれた四肢を解くことも出来ず、互いの肌を伝い落ちるアイスティーが汗に見えてしまうことにも気づかず、成り行きを見守るばかりの大神とかすみ。
 数瞬の後、うわずった声で沈黙を破ったのは、かえでだった
 「・・・も、もしかしてお邪魔だったみたいねぇ;;;」
 
「ち、違うんです!」
 
「待って!聞いてください!私達、アイスティーで・・・・」
 
「誤解を解いてくるって、大神さん・・・・・そういう意味だったんですか;;;」
 そう言葉を残すと、かえでと椿はそそくさと姿を消してしまった。
 事務室には、何とも言いようのない虚脱感にみまわれながら、のろのろと濡れた床から身を起こす大神とかすみの姿があった。

 それからしばらくの間、二人にとっていかんともしがたい日々が続いた。かえではかすみと大神を必ずペアにして事務仕事をさせ、普段なら手伝いに回る由里や椿も、絶対に二人の間に入らせようとはしなかった。
 「二人に任せておくのが一番いいのよ。何と言っても、若いんだものね」
 他の誰かが二人を手伝おうとするたびに、かえではそう言って何人も寄せ付けず、向かい合って「仲良く」事務処理を続ける大神とかすみに、慈しむような視線を送るのであった。
 
 「だからあの時、俺の話を聞いてくれてれば・・・」
 「うるさいうるさい!全部大神さんの所為よ!みーんなアンタが悪いのよ!!」

 
 ・・・・確かに、二人に任せておくしかなさそうである。