大神一郎残業日報・巴里編
「The WireGuy」in コクリコ

大神の一日は忙しい。
 それは船旅にして数ヶ月、距離にして数一〇〇〇キロをも隔てた巴里、「シャノワール」に活躍の場を移しても、変わる事は無かった。
 それは何より、シャノワールの女子達が帝都とは比べ物にならないくらいに積極的で、大神に対する好意が旺盛である事に尽きた。
 レビュウの仕事が終った彼女等は、我先にと大神の元へと駆け寄り、ある時は夜の公園へ、またある時は歓楽街のカジノへ、そしてある時は台所へ(…これが誰かは言うまでもあるまい)と誘うのだ。仕事に疲労しきった大神の身体にはいささか過酷な「残業」である。
 そして今宵も…
「1.2.3・・・・イチロー!」
「よ、よし来い!」
(ぎゅ〜っ!!)
「痛!いってぇえええ!!」
 だれもいなくなった楽屋に、大神はいた。
 今日の大神は、コクリコが明日行う事になっているワイヤーマジックの手伝いをしていた。
 ワイヤーマジックとは、いわゆる「縄抜け」の事であり、コイン、カードと並ぶ非常に古典的なマジックの一つだ。ワイヤーマジックは、手品という文化を持つ殆どの国で見られるシロモノであり、言い方を変えるなら、万国に通用する非常に完成されたエンターテイメントであるとも言えるだろう。
 この例に漏れることなく、日本にもワイヤーマジックは古くから存在した。大神自身も、ドサ周りの演芸一座が鮮やかなテクニックで様々な縄抜けを披露する様を、幼少時代に見たことがある。しかも、帝劇に入ってからは紅蘭という存在があった。手品が得意な彼女が、舞台の前座や合間、はては休憩時間の楽屋でこのワイヤーマジックを披露する姿は、大神にとって非常に日常的であった。紅蘭が見せていた縄抜けには、自分が縛られるタイプと他人の縄を解くタイプの二種類があり、特に後者については、よく紅蘭に実験台にされたものである。そして大神自身も紅蘭から手ほどきを受け、極々簡単なものであれば、こなせるようにもなっていた。
 よって、このコクリコの練習に大神が付き合っているのは、非常に適役であると言える。が・・・・
 「あ〜ぁ、大丈夫?イチロー?」
 「いてて・・・・うわ、跡になっちゃったよ」
 二人の『猛特訓』の成果は、芳しくなかった。
 今回は先に述べた「他人の縄を解く」タイプの縄抜けなのだが、どうもコクリコが持ってきた虎の巻の説明が不十分である為なのか、どうしても縄が解けないのである。既に特訓を始めてから二時間。時刻はもうじき深夜になろうとしているのだが、全くと言って良い程進展が無かった。
 「おっかしいなー。ちゃんと結べてると思うんだけどなぁ」
 結った髪の毛を左右に揺らしながら、コクリコが首を捻る。考え込む時に見せる、彼女の癖だ。
 「じゃぁ、もう一度本を読み直してみようよ」
 イチローこと大神が、縛られ続けた為に痣を作ってしまった手首を擦りながら提案する。
 「えー?ちゃんとやってるつもりなんだけどなぁ」
 「でも、細かい部分を見落としているのかもしれないよ?」
 「だいたいさぁ、この本がいけないんだよ」コクリコはそう言って、大神に本を放ってよこした。「だって英語なんだもん」
 無論、英語とは万国共通語として認識されているほど、ポピュラーな言語である。
 しかし、ベトナム生まれであるコクリコは、英語にあまり馴染みがなかった。母国語ではないフランス語を十分に話し、理解するコクリコであったが、読み書きとなると話は別で、まして英語ともなると、もう見た事のある文字しか読めなかったし、意味も判らなかったのだった。
 そんな知識で複雑極まりない手品の教本を読もうとしていること自体に無理があるのかも知れなかったが、なにしろ明日のレビュウで披露するネタにしようと思っていたのだし、イラストから判断する限り、かつて無いインパクトのある縄抜けになる事間違い無し!というシロモノであったため、コクリコは、なんとしてもこのマジックを身に付けなければ!と、やっきになっていたのだった。
 「イチロー、ちょっと読んでみてよ」
 一方、海軍出身である大神にとっては、英語はそれほど難しいものではない。士官学校主席たる所以でもあったが、遠洋航海に出れば生活の中で英語が必要になってくるのだから、基本的な読み書きと、簡単な会話もこなす事が出来た。だが、手品の専門書ともなると、これまた話が変わってくる。辞書でもない限り、いや、たとえ辞書があったとしても、この解読は困難を極めるだろう。大神は穴が開くほどに本を見つめながら、カリカリと鼻の頭を掻いた。
 「ねぇ、読める?」
 「う〜ん」
 「ねぇイチロー、読めるの?」
 「・・・・う〜〜・・・・・〜〜ん・・・・」
 生返事を繰り返しながら、それでも大神は本から顔を上げようとしない。
 「・・・・あ〜〜ぁ」
 ついに諦めたのか、コクリコは椅子に座ると、手持ち無沙汰に両足をブラブラさせて、大神が本を読み終わるのを待った。

 「わかった!」
 10分も経っただろうか。大神が勢いよく本を閉じてそう叫んだ。
 「ホントなのイチロー!?」
 「うん、今度こそ間違いないよ!」
 「イチロー、さっすがぁ!」
 待ちきれずに悶々としていたコクリコが、ぱっと顔をほころばせ、嬉しそうに笑った。大神は、そんなコクリコにウインクしながら、うやうやしくロープを手にした。
 「マジックショーがはじまるよー!なーんてね(^^)」
 「いいぞイチロー!ブラボー!」
 まだ結果も出ていないというのに、二人は既に盛り上がっている。
 「じゃ、こんどはコクリコが実験台になってくれるかい?」
 「うん、いいよ」
 コクリコは自分の両手を後ろに回し、ドキドキしながら大神のロープを待った。
 「えーと、ここをこうして・・・」
 「いたっ!いたいよイチロー!」
 「あ、ごめんごめん;;;・・・・ここを通して、こうして、こうして・・・・」
 「イチロー、ほんとに大丈夫なの?ボクなんだか心配になってきたよー;;;」
 数分後、心配するコクリコをよそに、大神はなんとか最後の結び目をこしらえると、ホンモノの手品師さながらのケレン味をつけて、ロープを引っ張った。
 「さーて、上手くいったらご喝采!!」
 
(グイッ!!)
 
「ぎゃ〜〜〜〜〜〜!!?」
 大神がロープを引いたとたん、喝采どころか、ニワトリを握りつぶしたような悲鳴が楽屋に轟いた。見ればロープは解けるどころか、コクリコの首筋に深々と食い込んでいるではないか。
 「イチロー!首、くび、くビィ〜〜〜〜〜!!」
 
「うわぁ!?コ、コクリコ!ちょっとの我慢だ!今すぐ・・・・・」
 
「し、死んじゃうー!!!!」
 大神はなんとかコクリコを救出しようと焦るのだが、いかんせん強くロープを引っ張りすぎたため、結び目が硬くなってしまっていて、なかなか解けない。それでもなんとか解いて、やっとの思いでコクリコを救出した。
 「し、しぬかと思ったよぅ;;;;」
 コクリコが涙目で大神に訴える。
 「す、すまないコクリコ!こんなはずじゃなかったんだが・・・・」
 「じゃあ、どんなはずだったってのさ!」
 ほっぺたをぷっくり膨らませて怒っているコクリコに、大神は手を合わせ、頭を下げた。

     

 さらに1時間後・・・・

  

 二人の特訓はまだ続いていた。
 しかし、続いてはいたものの、進展は無かった。大神が新しい結び目を作り、ロープを引っ張る度に、コクリコの首、肩、腕、足・・・・・ロープのかかった部分は解けるどころか、即座に締め上げられてしまうのである。
 「えぇ〜〜ん;;;」コクリコはもう半泣きである(そりゃそうだ)。「イチロー、ちゃんと本を読んでよ〜〜〜、辞書を引いてよ〜〜〜;;;;」
 「う〜・・・・ん」
 何度もそう言われて本を覗き込む大神の顔も、また困り顔だ。片手に持った辞書をペラペラと捲りながら、本と辞書とを懸命に見比べている。
 30分後、いいかげん眠くなってきたコクリコが生あくびをし始めた時、大神が声を上げた。
 「解ったぞ!」
 「え〜〜!?」
 終に問題が解決しようかというのに、コクリコが疑問文で答える。今までの仕打ちを考えれば、まぁ無理も無いだろう。だが、今回の大神の顔は、今までのソレとは違っていた。
 「解ったんだよ!実は、今までの結び方も間違いじゃなかったんだ!」
 「へ?どういう事なのさ?」
 大神の言葉にキョトンとするコクリコに、大神はロープを取り出しながら実演を交えて解説し始めた。
 「いいかい?」
 大神が、素早い手付きでコクリコの手首に結び目を作る。その結び目は今までと全く同じように見えたのだが、大神は、掛け声と共にロープを引っ張った。
 (ぎゅっ!)
 
「あぁ〜ん、痛いよ!何度やっても同じだよ!」
 
「我慢だコクリコ!」
 「痛った〜い!!」

 顔をしかめるコクリコを半ば無視するように、大神はロープを引っ張った。そして、ロープを引く手に更に力を込めた時、今までの抵抗がまるで嘘のように無くなり、手首から離れたロープはコクリコの足元にあっけなく落ちた。
 「ね?言っただろ?」
 したり顔の大神が、呆然と突っ立っているコクリコに笑いかける。
 「このトリックは、ロープを引く時にかなりの力が必要なんだ。引く時に一瞬ロープは締まるけど、更に力を入れて引っ張れば、こんなふうに解けるんだよ」
 「・・・・すっっごぉい!さすがイチロー!ブラボー!!」
 その場で飛び上がりながら、コクリコが喜びの声を上げる。長い膠着状況を逆転サヨナラホームランで解決した大神、いや、イチローはすっかり得意になっていた。
 「じゃぁ、今度はコクリコが引っ張ってみなよ。レビュウではコクリコがやることになるんだからね」
 「うんっ!」
 長い特訓にようやく光が見えてきて、コクリコは嬉々とした表情で大神を縛り始めた。
   

 「おや、シーとメルじゃないか。こんな所で何やってるんだい?」
 「あ、オーナー!」
 「何やってるんだい、ドアに耳なんか押し付けて。何か聞こえるのかい?
 「実は、ここには大神さんとコクリコがいるはずなんですけどぉ・・・・・」
 「?・・・・何が聞こえるんだい?」  
     
     
 「くぅおぉおおお!食い込む!食い込んでる〜!!」
 
「だ、大丈夫なの?イチロー!?」
 「い、いいから引っ張ってくれ!もっと強く」
 
「う、うんっ!そぉれっ!」
 
(ぐい〜〜〜っ!)
 「うぎゃ〜〜〜!も、もっと引っ張ってくれ〜!!」

     
     
 「・・・・こりゃ問題だねぇ」
 
「ねえねえメルぅ、これってSMっていうんでしょぅ?」
 「・・・・・し、知らないっ!」

 楽屋からの声は、殆ど筒抜けで外の廊下に響いていた。
 5分後、楽屋のドアの前に立っていた三人が姿を消した。
 10分後、ようやくコクリコが大神の縄を解き、波乱の特訓はようやく幕を下ろした。
 
 そしてアパートに戻った大神が、武装した警官隊に監禁と強制淫行と青少年保護条例違反の疑いで当局に強制連行されたのが、その1時間後の事である。
 ど、どーせ読めてたよ。こんな展開・・・・・(大神談:当局の取調室にて)
 
 ps
 ちなみに、コクリコのワイヤーマジックは、その日のレビュウで大成功に終わっている。念のため。
 

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