既に料理は運ばれていた。それらには一切手を付けず、マリアは手に持ったままのシェリーのグラスを時折微かに揺らしながら、その中に映し出される歪んだ風景を、ぼんやりと眺めていた。酔った時に見せる、マリアの仕草だ。そしてマリアがそういった仕草を見せる時、マリアの心は既に此処にはなく、遥か昔の思い出を辿っている事が多いのである。
 「グラスの中に何が見えるのかな?」
 会話が続かないので仕方なく食を進めていたユーリーが、ナプキンで口を拭いながら言う。その声にマリアの脳裏を駆け巡っていた思いでは途切れ、マリアは我に返った。マリアは飲みかけだったグラスの中身を飲み干し、料理皿に向き直った。皿の上ではトマトの添えられたハーブチキンが、微かに湯気を立てている。
 「ごめんなさい。何の話・・・・だったかしら?」
 とりつくろうようなマリアの微笑みに、ユーリーも苦笑いしながら答えた。
 「手紙だよ」
 「手紙?」
 「この間のエアメール。日本からの」
 ユーリーの言葉に、マリアは『あぁ、あれの事ね』といった様子で眉を上げて大きく頷いた。
 「『テイコクカゲキダン』」ユーリーはそう言いながら懐に手をいれ、一通の封筒を取り出した。「今日も届いていたよ。しかも3通もね」
 ユーリーから手渡された封筒には、『銀座帝國歌劇団』という文字が二つ、アルファベットと毛筆で記載されていた。マリアは封を切ろうとしたが、すぐ止めた。既に見慣れた物となった異国からの便りの内容が、今まで受け取ったものと全く同じものであろうという事は、容易に推測出来たからだ。その代わり、マリアと同じにその内容をよく知っているユーリーが、手紙の内容を諳んじて見せた。 
 「橘マリア様。親愛なる貴女へ─」
 その書き出しで始まるその手紙の内容とは、マリアに宛てた帝國歌劇団への勧誘の便りだった。蒸気機関による交通機関が発達したとはいえ、遥か遠方の国である事には変わりのない日本。その帝國歌劇団の関係者である藤枝あやめという人物が、以前グレート・ウォールのステージで踊っていたマリアの姿を見て以来忘れる事が出来ず、どうしても日本の、帝國歌劇団の専属女優になってもらいたいと、こう言っているのである。数ヶ月前から続いている帝國歌劇団からの手紙は次第に熱を増しており、最近では全く同じ内容の手紙が一日に何通も配達される事なども、珍しい事ではなくなっていた。
 「─当劇場のステージで踊る貴女の姿を毎夜毎晩夢に見つつ、来日を心からお待ちしております・・・・だっけ?」一字一句さえ間違えることなく手紙の内容を言い終えると、ユーリーはグラスを手に取った。「いい話じゃないか」
 その言葉に頷く替わりに、マリアは俯いて手紙から視線を逸らした。そして手近のウェイターを呼びつけると、空になったグラスを指差し、同じものを追加した。
 「あまり・・・気乗りしないのよ」 
 歩き去っていくウェイターの背中を見送りながら、マリアは呟くように言った。
 「どうして?君にとってのチャンスだと思うよ」 
 実はユーリーは、この話を始めて耳にした時からずっとマリアの海外進出に賛成していたのだったが、その話をする度にマリアは首を横に振るのだった。
 「確かにチャンスかも知れないけど、アメリカの生活にも慣れたばかりだし。それに今の仕事だって気に入ってるのよ。簡単に考えたくないわ」
 「でも、この藤枝あやめって人はプロデューサーらしいじゃなか」
 「まぁ、そう書いてあった事に間違いは無いわね」
 「そんな人から直々に声が掛かったんだよ。自分の魅力を信じて進んでいかなきゃ」
 だが、マリアは両の掌をユーリーにひらひらと向けて、否定を繰り返した。
 「それは何も、日本に行かないと出来ない事じゃないわ。せっかくショービジネスの国アメリカに来たんですもの。この国の中で仕事をしていきたいと思うのよ」
 マリアの意外な決意に、ユーリーは驚きと感嘆の声を上げた。
 「それにね」マリアが続ける。「私がこの話を断るのには、別な理由もあるのよ」
 「へえ、なんだい?」
 マリアは一呼吸置いて、思い切ったように打ち明けた。
 「オフ・ブロードウェイからオファーがあったの」
 その言葉に驚いたユーリーが、椅子から転げ落ちるような勢いで仰け反った。
 「すごい!すごいじゃないか!」
 興奮を抑えきれず、拍手をしながら言葉を繰り返すユーリーに、マリアは顔を赤らめながらなだめた。
 「や、やめてよ!他のお客さんに迷惑でしょ?」
 「構やしないさ!なぁ、聞いてくれ!このマリアが─」 
 「ちょ、ちょっとねえ!!」
 マリアがいくら制止しようとしても、ユーリーの耳には届かない。突然席を立ち上がったユーリーは、なんと店全体に響くような大声で今のマリアの話を宣伝してしまったのだ。深夜という独特の雰囲気とアルコールも手伝っての事なのか、ユーリーの話を耳にした客からは拍手喝采が巻き起こり、店内は一時騒然となる。そしてユーリーがシャンパンを皆に一杯づつおごると宣言した時、店内は興奮のるつぼと化した。慌てたのはマリア只一人である。 
 「おめでとう!」
 「おめでとう!」
 「頑張れよ、女優さん!」
 見知らぬ人物からたくさんの握手を求められて、マリアは赤くなったり頭を下げたり、しまいにサインまでねだられて、もう何が何だか訳が判らない。そして皆の元にシャンパンが行き渡ると、すかさずユーリーが音頭をとって、盛大な乾杯が交わされたのだった。
 「全くもう;;;」
 自分の前にも置かれたシャンパンのグラスを口に付け、マリアは困ったような照れたような、いかんともしがたい表情を浮かべている。だが、ユーリーはそんなマリアの肩を抱きながら、周囲に愛想を振りまいていた。
 「ありがとう!ぃやぁ、ありがとう!」 
 「ありがたくないわよ、全く!オーディションだって済んでないのに、落ちたらどうするのよ!」
 「まぁまぁ」ユーリーは運ばれてきた二杯目のシャンパンを受け取ると、続けた。「僕がこんな事をするのにも、また別な理由があるのさ」
 「?」
 
 ユーリーの言葉にマリアは腑に落ちない。とりあえず二人は席に戻り、話を続ける事にした。
 「理由って、なんなの?」
 心当たりの全く無いマリアは、不思議そうにせついた。だが、ユーリーは懐から一つの包みを取り出すと、マリアに手渡した。純白の紙に金のリボンが掛けられた、小さな箱だった。
 「何よ」
 「開けてみてくれないか」 
 「何なのよ」
 「サイズが合ってなかったら、明日中に持って行かなきゃいけないんだ」
 ユーリーはそう言うと、マリアが包みを広げるのを待った。仕方なくマリアがその包み紙を剥がしにかかると、なぜだかユーリーは落ち着かない様子でグラスを何度も口に運んでいた。
 包み紙が解けると、深い藍色の小箱が現れた。背面に蝶番が取り付けられたその蓋を開けると、中には、細やかなダイヤを幾つもあしらった指輪が入っていた。
 「本当は、2カラットくらいの大きなダイヤが欲しかったんだけど・・・・」
 「・・・・」
 指輪を見つめたままのマリアは、ユーリーの言葉に少しも反応を示さなかった。マリアの視線は只唯一、目の前の指輪にのみ吸い込まれていた。
 「やっぱり、手が届かなくてね・・・・それにこんな時間だから店も少なくて、結局これしか買えなかったんだ」
 「・・・・」
 「で、でも、安物って訳じゃないんだよ。だから・・・・」
 「・・・・」
 「まぁ、『だから』ってのも変なんだけど・・・」
 「・・・・」
 「その・・・・僕はあまり、真面目な話は得意じゃないんだけど・・・・・」
 「・・・・」
 「君が日本に行かないっていうんなら・・・・」
 「・・・・」
 「考えてみてくれないか・・・・その・・・結婚を」
 その言葉に、ついにマリアが顔を上げた。
 その瞳は今にも涙が零れ落ちそうなほどに潤み、唇は言葉を持たなかった。指先で指輪を摘み上げると、掌の中にしっかりと握りこみ、頬を寄せ、強く、何度も頷いた。そして互いに身を乗り出して、どちらからともなく唇を求め合う。
 「何時、言ってくれるのかと思ってた・・・・」
 ついに零れ落ちた涙を何度も拭いながら、マリアがユーリーの腕の中で呟いた。
 「すまない・・・・半年も前に心に決めていたんだけど、歌劇団からの手紙が来るようになってから、なかなか言いだせなくて」
 「ありがとう・・・・私はあなたと会ったときから・・・・」
 「マリア・・・・」
 「初めて会った時から、あなたと結ばれたいと思っていた・・・・」
 そしてもう一度、祈るような誓いのキス。
 
 「おめでとう!」
 「コングラッチュレーション!」
 「見せつけるね、お二人さん!」
 今までのやり取りをずっと見ていたらしい近隣の席から大きな声が上がり、二人は慌てて身を引いたのだが、しだいに店内が拍手に包まれていくと、マリアよりも先に普段の気質を取り戻したユーリーは、今度は見せ付けるようにしてマリアの頬に口付けた。その途端、割れんばかりの喝采が巻き起こる。
 「ちょ、ちょっと!」
 全員の注目を浴びながら、照れたマリアは慌てて身を引くのだったが、今回ばかりはまんざらでもない様子だ。そんなマリアをユーリーが見逃すわけも無く、ここぞとばかりにマリアを茶化す。
 「いいじゃないか。皆喜んでくれてるんだ・・・・君からも何か言ってあげなよ」
 「何をよ!?」
 「ホラ、早く!」
 ユーリーに背中を強く叩かれて、マリアは一瞬黙った後、ほとんどヤケっぱちの大声で叫んだ。
 「一杯おごってやるわよ!まったくもう!」
 マリアの声が高らかに響き、歓声と拍手の渦が巻き起こる。
 薬指に通した指輪は室内灯にきらめき、皆の瞳を眩しく刺すようだった。
 店中が二人への祝福に包まれ、夜はまだまだ更けてゆく。
 だが、マリアは次々と注がれていくシャンパンを口に運び、それを幸せの味と感じながらも、思うのだった。
 
 (明日からは食費を切り詰めていかないとな)
 
 ・・・・マリアが人生を楽しむには、まだまだ時間がかかりそうである。

FIN


あとがき

7000Hitのキリ番リクエストで、高槻まりあさんに頂いたリクエストは、「マリアとユーリーのラヴラヴな話」というモノでした。
私としてはかなりの「LOVE」を注ぎ込みましたが、如何でしたでしょうか?
高槻さん以外にもこのSSを楽しんでくれた方がいらっしゃるとしたら、とても嬉しいです。

「ユーリーがもし生きていたら・・・」という設定に限らず、ユーリーとマリアをそざいにしたSSでは、ユーリーのキャラクターはかなり真面目な男性というように書かれているものが多いと思います。
しかし、今回のSSを各に当たって、私はユーリーに「実兄のようなフレンドリーさ」を与えてみました。
馴染めない方がいらっしゃるかも知れませんが、残酷な過去を生きてきた二人には、平凡な毎日を笑って過ごせるような関係になって欲しかったのです。
ですから、マリアたちがアメリカに来てからこの「遥かなる夜」の舞台を迎えるまでには5年という歳月を設けてみました。無論、この間に彼らは新しい「愛」の在り方を考え育んでいたのだと思います。

でも、これからの二人の話を書くのもオモシロかな〜と思っています。
真面目っ子なマリアが悪戯っ子ユーリーと、愛に仕事に育児にてんやわんや!
・・・・想像すると、楽しそうですね♪

これからもキリ番は受け付けます。
「こんなSSがほしいなぁ」と思ってる方は、ちょくちょく遊びに来てみて下さいね<宣伝?
(2002/08/29)