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階段の踊り場では、未だ巨大な影が揺れている。ゆっくりとではあるが、どうやらこちらに向かってきているらしい。
「怪物ですって?」
「怪物・・・・・誰が?」
エリカが発したその単語を繰り返し、いぶかしげに顔を見合わせる3人。おそらくは13人の中の、そしてこの場に居る4人以外の誰かなのであろうが、あの影が誰のものなのかは、そのキーワードだけでは全く見当がつかなかった。第一、誰もが三倍の霊力を身につけているのである。怪物と呼ばれて不思議の無い人間など、ここにはいないのだ。
ゆらり。影がまた近づいてきた。
「逃げなきゃ・・・・・逃げなきゃ・・・・・・」
エリカの様子がおかしい。可愛らしいはずの顔は恐怖に引きつっていた。床の上に転がったマシンガンをようやく探し当てると、弾倉を装てんした。あまりに慌てた為に手の中で何度か取り落としそうになったが、それを何とか堪えると、廊下の奥目指して──隊長室のある方向へと──脱兎の勢いで走り始めた。
「エ、エリカ!?」
グリシーヌが慌てて叫んだが、エリカの耳には届いていない。
「逃げて!いつまでもそこにいたんじゃ、狙われるわ!」
後ろも振り向かずにそう叫び、エリカは廊下の奥へと消えた。彼女の姿が見えなくなったとなると、グリシーヌは近づいてくる影に視線を向けながら、さくらとすみれの両方に言った。
「どうする?」
「どうするって・・・・・・どうします、すみれさん?」
振られたさくらの表情にも、幾ばくかの迷いがある。この場で影の正体を待ち伏せ、この場で戦うことになったとしても異論は無いが、相手の正体が明らかにされていない限りそれは「待ち伏せ」とは呼べない。エリカの登場は余りにも突然であり、皆動揺していた。声を潜めることも忘れていた為、もしかしたら「怪物」にはこちらの名前が聞かれてしまったたかもしれない。もしそうだとしたら、不利なのはこっちの方だ。
それに、エリカの事もある。はっきり言って、あの怖がり方は尋常ではなかった。それに、なぜエリカは逃げたのか?仮に相手が本当に怪物並みの力を持っているのだとしても、この場に留まりさえすれば4対1という圧倒的なアドバンテージを取る事が出来る。なのに、彼女がそれを良しとしなかったのは何故だ?恐怖心が勝ったというのか?それほどまでに「怪物」の力は恐ろしいとでもいうのか?
さくらの表情は見る見るうちに硬くなった。彼女の胸のうちは無言のままにグリシーヌにも伝わったのだろう。グリシーヌの表情もまた、さくらに似たものとなっていた。
「どうする!?」グリシーヌが叫んだ。影がさっきよりも近づいている。叫ぶ必要があった。「どうするんだ、と言っているっ!?」
だが、その切迫した声は、すみれによって高飛車に一蹴された。
「お黙りなさいな、海賊さん」
「何だと!?まだ先刻の続きをやろうとでもいうのか?」
すぐさまグリシーヌが噛み付いたが、すみれは相手にしなかった。
「無論そのつもりですが・・・・・それは後ほどに願いたいですわね」グリシーヌを言葉少なく退けると、彼女は廊下を指差した。「あそこへ」
さすがのすみれでさえ、やはり予想のつかない敵を相手とするのは不安なのだろうか?そう思ったさくらだったが、彼女の表情がそれを否定していた。
「あなた方は一端下がって下さい。私が敵をテラス前に引きつけます。頃合を見計らってグリシーヌさんはその蛮族の斧でもって、一撃で相手を仕留めて下さい。さくらさんはグリシーヌさんが打ち損じた場合の保険です。よろしいですわね?」
「す、すみれさん?」
突然の作戦発表にさくらが驚きの声を上げたが、すみれは構わず続けた。彼女の持つ薙刀は既に影の動きを追っていた。
ゆらり。ゆらり。左右に揺れる薙刀の切っ先。そして影。
「廊下の奥まで下がって距離を取るのもいい考えですけれど、廊下の中で相手に追いつかれた場合、私たちの方が断然不利になる可能性が高い・・・・・廊下は私とグリシーヌさんの武器には狭すぎるのは判っているし、特に私の戦術は、攻撃の間合いがあなた方よりも広い上に攻撃範囲も広いから、下手をするとあなた方まで巻き込みかねない・・・・・」
彼女の表情は既に意を決しているようだ。それを見たグリシーヌとさくらが、相談するかのように顔を見合わせた。
「一人で待ち伏せるというのか?」
「エリカさんは逃げ出しましたが、彼女はマシンガンで『怪物』をけん制していました」
「それが何だと?」
「敵わないまでも、けん制するだけならばその程度で通用する、という事です」
「しかし・・・・・」
「相手の姿を見る事も、今後の作戦を立てるためには重要でしょう?得体の知れない相手に追い回されてたのでは、こちらは手の打ち様がなくなるし、それに・・・・・・」一呼吸の間の後で、すみれの顔がきりりと冴えた。「私の薙刀がエリカさんのマシンガンに劣るとでもお思い?」
その台詞が決断を促した。さくらとグリシーヌはすみれをテラス前に残すと、廊下の、階段側からは見えない位置まで下がった。
「来ないな・・・・・」
グリシーヌが呟いている。廊下に下がった彼女達は、すぐさま踏み込む体勢を作りながら、すみれと「怪物」が接触する瞬間を待ち構えていた。テラス前で「怪物」を待ち構える役に回ったすみれの姿は、ここからだと殆ど真正面に見えている。何かが起きさえすれば、まず見逃す事は無いだろう。
だがさくらは、先程交わされた会話の中から、何か釈然としないものを感じ始めていた。もし本当に「怪物」が「怪物」であるならば、何故エリカのマシンガン程度でけん制出来たのか?マシンガンの威力ではけん制する事しか出来ないのに、何故「怪物」は強引にでもエリカを手にかけようとしなかったのか?エリカは何処に逃げて今何をしている?さくらは懸命に考えようとしたが、テラス前に意識を向けなくてはならない為になかなか考えが纏まらない。それに、答えを出すには時間が切迫しすぎていた。
「なかなか、来ないな・・・・・」
さくらよりも更に一歩下がった位置で、グリシーヌが手の中で斧の柄を何度も握りなおしながら呟きを繰り返している。右足が既に踏み込みの体勢をとっており、まるで影の主が現れた瞬間に切りかかろうかというような意気込み方だ。さくらは自分の思考を一度中断させると、今度はグリシーヌの気配に注意を向けた。
「グリシーヌさん」さくらが視線の向きを変えぬまま、グリシーヌに向かって確認するように言った。「グリシーヌさんの出番は、すみれさんと怪物とが接触した後ですからね?」
しかし、グリシーヌからの返事は無い。無視されたのだろうか?作戦は工程を踏まえてこそ作戦と呼べるというのに。
「ちょっと、グリシーヌさん──」
心配になったさくらは、最悪の事態が起こる前にグリシーヌの方へと向き直った。
まず、さくらは壁に這うグリシーヌの影を見た。そしてその影の中から人間の上半身が突き出ているのを、一方の腕がグリシーヌの武器を封じ、もう一方の腕の先から更に伸びた鉄の爪がグリシーヌの腕に装着されたブレスレッドを切り落とす様を、自分に何か起こったかに全く気付いていないグリシーヌが、まるで電波障害によってキネマトロンの通信映像が消失する時と全く同じ印象で消えていくのを、殆ど一瞬の内に見た。グリシーヌの消失を見送った上半身は、やおら壁に手を付くと、まるで地の穴から這い出すかのような仕草でその全身を露にし、全くの無音で廊下の床に足を下ろした。エリカだった。しかしその顔がどす黒く変色し、その変色が全身にまで及ぶと、エリカの顔はロベリアのそれに変わっていた。普段着であるオリーブ色のコートに身を包み、さくらを遥かに上回る上背が、強烈な威圧感を携えて彼女を見下ろしていた。
「・・・・・!!」
何とか叫び声を上げようとするさくらの唇に、ロベリアの右手が先回りする。グリシーヌのブレスレットを切り落とした鉄の爪が、何の音も発する事無くさくらの唇に押し当てられた。
「別に不思議な話じゃないだろう?変装、声色は『盗みの七つ道具』のうち・・・・・って訳さ」不思議な事に、ロベリアの声は全く聞えてこなかった。彼女の唇だけがそのように動いていた。「残りの五つは、いずれ教えてやるよ」
眼鏡の中の瞳がニヤリと笑う。ロベリアは、さくら自身の影の中に踏み込んだ。すると、彼女の足元が見る見るうちにさくらの影と同化し始めたではないか。
「・・・・・あばよ」
再びロベリアの唇がそう動くと、まるでさくらの影の中に落下するようにしてロベリアは姿を消した。
「ロベリア・・・・・カルリーニ・・・・・」
さくらはたった今自分の影の中に消えた怪物の名を呟いた。呟くのがやっとだった。言い切った瞬間に、口から息がドッと漏れた。実際、呼吸をする事さえ忘れていたのかもしれない。
全ては、あっという間の出来事だった。
「さくらさん!グリシーヌさん!」
階段の方からすみれの声がする。そういえば彼女は例の影の正体を待ち伏せていたのだった。
「影が消えたわ!誰も居なくなったわ!」
居なくなった?
さくらは嘲る様な微笑を浮かべながら、短くため息をついた。すみれの言葉に痛烈な皮肉を感じずにいられなかった。影の主は居なくなったのではない。最初からそこには誰も居なかったのだ。獲物を見つけた怪物は、獲物を仕留めるに十分かつ最も確実な作戦を用意していたのだ。我々はそれにまんまと引っかかり、戦力を見抜かれた上で分断され、誘導され、最後にはグリシーヌが犠牲になった。おそらくはエリカも既にこの空間には存在していないだろう・・・・・彼女の姿を利用したロベリアが、彼女自身の存在を許すはずが無い。
突然、さくらの脳裏にグリシーヌの言葉が浮かんできた。
『その「誰か」は三倍の力を身につけた「誰か」では無い・・・・・・「怪物」だ』
なるほど、確かにその通りだ。さくらは再び力なく微笑んだ。
ありがとうグリシーヌ。あなたがその身に代えて示してくれた教訓を私は決して忘れないだろう。怪物は確かに存在し、そしてその名を上回るほどに驚異的だった。
今や全てを悟ったさくらは、その事実を伝える為にテラス前へ歩き出した。解けた緊張と新たなる恐怖が、彼女の足を何度かもつれさせた。
グリシーヌはもう居ない。新たなる作戦が必要だった。
【残り10人】
グリシーヌ・ブルーメール ─再起不能─
エリカ・フォンティーヌ ─再起不能─
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