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あのじーさま、とは神崎重工の創始者であり、すみれの祖父である神崎忠義のことである。大神とは以前すみれの見合い話が持ちあがったときに一見しただけで、ほとんど喧嘩に近い状態で別れたままであったが、恐らくその後の花組の活躍を聞きつけては、大神に注目していたのかもしれない。
何でも、現在すみれの父が運営している神埼重工の跡目争いは、一人娘のすみれがいつまでも婿を取らないでいることから、親戚を始めその他の財閥から「是非我を」との声が上がり始め、それはそれは熾烈を極めているらしい。
娘は婿を取らない。かといって他の者ではその力量に信用ならん。
そんな調子で毎日頭を悩めているときに、ふと大神のことを思い出したのだそうだ。そして大神の男気を見なおし、特に戦闘においての勝負度胸に惚れこんだ大老が、今回直々に米田のところに出向いて、この話を持ちかけたという次第らしい。
「とりあえず話を聞いてもらうだけの事だって、向こうは言ってるんだがな」
「だからって・・・・自分は経営の事は何一つ判りませんし、第一自分は軍人で・・・・」
「その辺は関係ねえだろ。別に軍人が企業家の娘と結婚しちゃいけねえって法はねえよ」
「それにすみれくんだって、そんな話OKするわけがないでしょう」
「すみれはその話を聞いた瞬間に、晴れ着を10着ほど新調したそうだ」
米田はそう言うと、すっかり根元まで吸い尽くした煙草を地面に押し付けた。二人のすぐ足元には、既に幾つもの煙草の吸殻が落ちている。
「そ・・・そんなぁ・・・。彼女、やる気満々じゃないですか;;;」
「だから俺も困ってんじゃねえかよ、なぁ」
「あぁ・・・うん、まぁ・・・そうですかぁ・・・・?」
「向こうが頭下げて来てんだぜ?お前も忘れてねえだろ、神崎重工とすみれとの縁は切れてんだ。でも孫を思う気持ちはかえられねえってわけさぁ・・・その辺、お前でも解るだろ?あぁん?」
「はぁ・・・まぁ、察しますけども」
「ある意味、泣かせるヤツ等じゃねえか、そう思わねえか、大神ぃ?」
「・・・勝手なことを言ってる様にしかみえませんけどね、自分には」
「今回は、思っとけや」
米田はそう言ってやおら立ちあがると、うん、と唸って腰を伸ばした。
「支配人?」
「あぁ、俺はもう行くからよ。ここはお前片付けろよ。な?」
「はぁ」
米田は、大神に背を向けて歩き始めた。
後には一人、大神だけが取り残された。
薄く広がっていた雲の間から青空が覗くと、濡れた芝生がきらきらと輝いた。
久しぶりの日差しがうれしいのだろうか、さくらが廊下をパタパタと走り回り、窓を開けてゆくのが大神の位置からよく見る。
しかし、それでも、大神はその腰を上げることが出来ないでいた。
足元にいる一匹の蝸牛が、触角を滑稽に動かしながら日陰に這って行く様を、ただ呆然と眺めていた。
『今週の日曜に帝国ホテル、一ニ:○○(ひとふたまるまる)だからなぁ!髪の毛くらい切っとけよぉ!』
屋内に入る際に米田の叫んだその言葉が、未だに頭の中でぐるぐると回り続けていたのだ。時折無意識に手にした杯を口元に持ってゆくのだが、その度に中身の無いことに気づき、そしてその度にため息ばかりが増えていった。
飲み始めた頃に正午を指していた腕時計も、すでに3時を回っていた。
今日は土曜日だった。つまり、見合いは明日なのである。
見合いまで、後、21時間しかない。
既に、後戻りは出来ない状態だった。というよりも、米田がこのタイミングを狙って大神に打ち明けたに違いない。そうでなければ、大神がこの話を飲むわけが無いことを米田は知っていたのだ。
「はぁ・・・・」
とてもじゃないがやりきれない。自分のため息ばかりがやけに耳ざわりだ。
しかし・・・・
相手は神崎家である。ただの軍事成金ではない。重工業とその貿易を完全に独占する日本最大のコンツェルンであり、GNPの十数パーセントを単独で叩き出す、国家が無視することの出来ない大財閥である。それが何を意味するのかは、大神自身が一番よく知っていた。
何しろ、今回は大神一人を相手に、神崎重工の創始者が直々に頭を下げに来たのである。一度見捨てた存在である華激団に対してのその行為は、決して足元に落としたものを指先で摘み上げるような、簡単なものだったわけではないだろう。そして、その「恥」とも言える行為より、大神を神崎に迎え入れることを重要視したのであろう。神崎忠義がどれほどの心境でその思いを口にしたのか、大神には想像がつかなかった。
それだけ見こまれている。惚れられている。
男として、ある意味喜ばしいことである。
だが・・・・
「暑い・・・・・」
ようやく意味を持つ言葉が大神の口から漏れた。
雨上がりの蒸し暑さが、苦悩する大神の感覚を呼び覚ましたのである。
人間、心の中が混乱に陥り、一時的にその状態を保てなくなったとき、空腹や寒気などの生理的感覚が一番始めに回復するという。そしてそれをきっかけにして、ようやく全てが、徐々に元通りになるらしい。
今の大神の場合、そのきっかけになったものが「蒸し暑さ」だったのである。
うなじのあたりに指をやると、先ほどハンカチでぬぐったばかりだというのに、熱気を帯びた汗がねっとりとその指先にまとわりついた。シャツの内側、胸の辺りを汗の粒が滑り落ちていくのが判る。そしてそれに引き寄せられるかのように、大神の下着が肌にピッタリと張り付いて、更には上着にまで染みを広げていくのだ。
暑い暑い。そりゃあ暑い。
見合いの話はとりあえず置いといて、まず・・・・
「髪でも切るか・・・・」
大神がそう思ったのは、大神が米田の言葉を気にしたのではない。
事実、大神の髪の毛は伸びに伸びており、そのうっとうしさを増徴させる一因になっていたからだ。特に朝にクシを通すときなど、それを整えるのに普段の倍の時間と整髪料を持ちいらねばならぬのが、最近の大神の悩みのタネであった。
よし。
取り合えず、髪を切ろう。
見合いのことを考えるのはそれからだ。
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