大神がそう思ったとき、頭の後ろで声がした。
 「隊長、何してるの?」
 振り返ると、レニが立っていた。フントに会いに来たのだろうか、その手には小さなボールが握られている。
 「隊長?」
 もう一度たずねるレニが、その青い瞳を瞬かせて、大神の顔を覗きこんだ。白い肌に、おろしたての夏服が眩しい。
 「あぁ、レニ。俺はちょっと・・・・髪を切ろうかと、ね」
 大神は長椅子から腰を上げながら答えた。
 「・・・・」
 レニは何も答えず、椅子の上に転がっている数本のとっくりに目を走らせている。更に芝生に落ちている何本もの串と吸殻を発見した後、「今まで一人でなにしてたの?」とでも言いたげな視線を大神に戻した。
 「いや、これはその・・・・米田支配人とね」
 「ふうん」
 レニはちらりと大神に視線を合わせただけで、再び芝生に目を向ける。何でもないことのように頷くその様子が、「何でもない事ではあるけれど」と、何故だか責められているようで、大神は微かな居心地の悪さを感じた。
 「後で片付けようね、隊長?」
 「う、うん・・・・」
 「後で片付けるよね、隊長?」
 「は、はい・・・」
 大神は曖昧に返事をして、照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
 極々まれにだが、レニはこんな風に、何も言わずに相手にわからせるような会話をすることがある。会話といっても、レニの言葉が日ごろから少なすぎるので、それを何とか補うために、大神がその微かな表情や、視線の変化から読み取ろうとした結果のものなのだが。
 でも大神はその瞬間がが気に入っていた。レニが見せてくれる微かな表情が。言葉が。瞳の輝きが。

 やがてレニは視線を中庭の隅に走らせ、フントの姿を求めたのだが、恐らくこの湿気を嫌ってどこかに隠れているのだろうか、見つけることは出来なかった。手持ち無沙汰になったレニは長椅子に座ると、空中にボールを放ったり、落ちてきたそれを二の腕や肘の内側で弾いたりする一人遊びを始めた。
 ぽーん、ぽーん。
 レニがボールをもてあそぶ音だけが、大神の耳に聞こえてくる。
 大神は、レニの邪魔にならないようにやや気を使いながら、レニの隣に腰掛けた。
 ぽーん、ぽぉん、ぽん。
 座った瞬間、レニがノールックパスでボールを大神に放ってよこした。完全に虚を付かれた大神だったが、それを見越したレニが玉筋を甘くしていたこともあって、何とかそれを地面に落とさずにキャッチすることが出来た。そして大神がそのボールをレニへ放ると、レニは何事も無かったかのようにボールを操り始めた。もちろん大神からボールを受け取る際にもノールックだ。どうやら大神はフントの代りらしい。
 「隊長」
 「ん?」
 「切るの?髪」
 レニは質問をしながらも、右へ左へ、上へ下へとボールを巧みに操っている。
 銀色に輝くショートヘアーが、いつ見ても綺麗だ。
 「うん、これから床屋に行ってこなくちゃ」
 「ふうん・・・」
 「レニはどうするの?フント、いないみたいだけど」
 ぽぉん、ぽーん。
 レニは視線をボールに向けたまま、大神の質問に答えた。
 「髪、切ろうかな」
 「え、レニも?・・・・・そんなに長くないんじゃない?」
 「うん、ボクはね」
 「?じゃあ、セットに行くの?」
 「セット?ボクはそんなの人に頼んだりしない」
 「じゃあ、何?」
 「だから」
 パシッ。
 今まで宙を舞っていたボールが、小気味良い音をたててレニの手のひらに包まれた。
 「ボクが切るよ。隊長の髪」
 「えぇ?」
 突然の申し出に、大神は目を丸くして驚いた。
 レニが?
 俺の髪を?
 切る?
 大神はその言葉が聞き間違いではなかったのかと思い、何度も頭の中で繰り返した。しかし当のレニは、しばらくここに居る事を大神に指示すると、さっさと何処かへ姿を消し、そして再び現れたときには、肩に大きなバスタオルを引っ掛け、既に腕まくりされたその手には、茶色の皮袋が握られていた。
 「おまたせ、隊長」
 大神が座っている所までレニが近づいてくると、レニの手にある皮袋だと思っていた物が、実は帯状の道具入れだということが判った。レニがそれを広げて見せると、案の定、丁寧に手入れが行き届いている大小の髪きりハサミが、数本のクシと共に銀色に輝いていた。良く見ると小さな霧吹きまである。
 実に見事な、そして何よりも意外な代物だった。
 「これ、全部レニの私物なのかい?」
 既に肩にバスタオルをかけられ、準備が整いつつある大神が、妙に緊張した声でレニに尋ねた。レニはその質問にただ頷いただけで、作業の手を休めずにテキパキと準備を進めている。
 「なかなかよさそうな道具だね」
 「うん。こっちに来るときに一緒に持ってきた」
 「へえ、ドイツ製か・・・・いかにも切れそうだね」
 「もちろん。満足してる」
 大神の耳には、端的に答えるレニの言葉が妙に重い。
 (「まな板の上の鯉っていう言葉は、こういう時に使うんだろうな」)
 と、大神が思ったその時、レニが大神の背後に立つ気配が大神を包んだ。 

 「じゃ、始めようか。隊長」

 足元にいた蝸牛ももういない。
 雲の無くなった空に、銀色のハサミがキラリと光った。

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