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食堂を後にした大神は一旦自室に下がり、手早く道着に着替えた。一時間後という約束を考えると少々早すぎる気もするが、さくら達に引きとめられて思わぬ時間を食っていたし、何より大神自身に鍛錬に対するウォームアップが必要だったからだ。
裏を返せば、それだけハードな鍛錬であるということである。
それを考えれば、先程さくら達が見せた反応というのも、然るべきものだったのかもしれない。
「・・・・・・」
やめよう。考える事は無意味だ・・・・・今は。
鏡の前で佇まいを正した大神は、ふっとため息をつき、ドアのノブに手をかけた。
ガチャリとノブの回る音がして視界が開けると、そこに人影が見えた。かえでだった。
「大神くん・・・・」
大神は、目の前に立っているかえでの顔を見ることが出来ず、顔を伏せた。何故なら、かえでの目も表情もまた、先程食堂で見てきたものと同じものだったからだ。
「何かご用でしょうか、副司令」
視線を合わせようとしない大神の口から、極めて事務的な言葉がついて出た。その無礼があまりにもあからさまだった事と、改めて気づかされる自分の心境に気づき、大神は唇を噛んだ。
そしてそれを確認したようなタイミングで、かえでが口を開く。
「大神くん、あなたとすみれの事は・・・・」
「御用がないのでしたら、自分は鍛錬がありますので・・・・・失礼」
殆ど消え入るような声で大神が話を切り上げようとしたが、脇を擦りぬけようとする大神の腕をかえでが掴み、拒んだ。
「待って頂戴・・・・!あなた本当にいいの?このままで、本当にいいの?」
「・・・・何を言ってるんです?あなたもさくら達と同じ様な事を言いに来たんですか」
その時になって初めて、大神がかえでに向けた言葉と視線は冷ややかなものだった。しかしかえではその瞳をじっと見つめると、絡めた大神の腕に力を込めながら、ゆっくりとその胸の内を話し始めた。そこには上司と部下という垣根はなく、明らかに個人の、一人の人間としてという立場からの言葉だった。
「そうね、そうかもしれない。すみれに対する仕打ちは一時の事だと、あなたは言いたいのよね?そうよね?
でもね、大神くん。あなた・・・・あなた本当は、まだ迷ってるんじゃないの?
あなたも知らない訳ではないでしょう?特務士官の行く末を・・・・
私はここで管理者というポジションを確保したから、あなた達とこうやって話が出来る。
でもね、他の特務士官は私と同じ様な人ばかりではないのよ?
訓練期間の数年は外界と遮断されて、あなた達は会うことも、話す事も許されない。
仮に任務を与えられたとしても、名を奪われ、身分を奪われ・・・・・
その存在さえ危ぶまれるような、そんな危険な任務につくこともあるのよ・・・・!
それでいいの?それが本当に、あなたの望む結婚なの・・・・?
私があなた達の話を聞いたとき・・・・とても嬉しかったわ。
あなたたちなら、きっと希望を育んでいけるって。新しい命を育て、明るい未来を築く事が出来るって。
でも神崎家が、あなたを養子として神崎家に迎え入れる事を、結婚の条件にしてしまったのよね?
・・・・・どうしてなの?それがそんなにいけない事なの?
神崎家に入っても、あなたは生活を変える必要なんか無いでしょう?
あなたが一度、神崎家と全ての縁を切ったことを忘れて言ってる訳じゃないの・・・・・
私にはどうしても・・・・どうしてもすみれを危険な目に会わせたくないのよ・・・・!
もう、花組の誰かが欠けるのは・・・・その可能性がある事が・・・・
私にはどうしても、いたたまれないのよ・・・・・・」
かえでの言葉だけが廊下に響き、その全てが闇に吸い込まれるように消えた。
かえでは自分がいつしか泣いている事に気が付くと、慌てて目の淵を押さえ、髪を掻き揚げた。もし大神がその表情を見たならば、すぐさまある人物を思い描く事が出来るだろう。サタンとの戦いに命を奉げ、帝劇と帝都に光をもたらした「あの人」を。
二度と帰らぬその人を思う気持ちは、かえでと同様に、大神もまた、思えば涙をこぼしただろう。だから大神は、黙っていた。
「・・・・・」
「大神くん、あなた達の道は一つではないのよ?もう一度、もう一度考えなおして頂戴・・・・!」
『しっかりしなさい、大神くん・・・・』
大神の脳裏に言葉がよぎった瞬間、大神はかえでの手を振り払い、歩き出していた。
「待って!大神くん!待って頂戴!」
かえでの言葉を背中で聞き、大神はそのまま階段を下りた。階段を下りながら、大神は小さく言葉を呟いた。
「あなたなら、僕に何と言ってくれるんですか?あやめさん・・・・」
あまりに小さいその言葉が、かえでの耳に届く事は無かったのだろう。大神を呼ぶかえでの声が、それ以上聞こえてくる事は無かった。
鍛錬室のドアを開け、乾いた空気が身体を包むと、大神は少々の落ち着きを取り戻した。そしてそこからじっくりと時間をかけて柔軟体操を行ない、鍛錬に備え、すみれを待った。
すると、数分の間を置かずして、すみれが部屋に入ってきた。既に道着に身を包んでおり、入るなり大神にならってウォーミングアップを始めた。
「早いな」
「はい」
常の事だが、この場所で二人が交わす言葉は少ない。しかし今日、大神にとって、この沈黙は何故か耐えきれぬものになっていた。言葉が消えることを恐れるようにして、大神が口を開く。
「昼間の怪我の具合はどうだ?」
「手当ては済みました。大丈夫です」
「痛むか」
「支障ありません」足袋を脱いだすみれがすっくと立ち、素足の感触を確かめるようにして大神に向き直る。「時間が必要な事、その時間が足りない事は、あなたが教えてくれたはず・・・・」
そう言いながらすみれは、汗止めを手に取った。
ひらりと舞う、白い布。
白い指先。
包帯に隠れる、微かな血の匂い。
すみれくん・・・・!
判らなかった。
気持ちと同時に、身体が動いていた。
大神は、汗止めを巻こうとするすみれの腕を制し、そのの身体を腕の中に掻き入れた。
「中尉!?」
「何も言わないでくれ!今は・・・・・」
大神の腕が、すみれの身体を更にきつく、きつく抱きしめる。突然のことに戸惑いを見せたすみれだったが、やがてそれも消えると、大神の背に自らの腕を廻した。そして自分の吐息が跳ね返る程に、大神の胸に身を預ける。
どれほどの間、そうしていたのだろう。
大神は自分の呼吸一つが一分にも長く感じられた。数センチも無いそこから漂ってくるのは、すみれの髪の匂い、肌の匂い、汗の匂い・・・・・その全てが、いとおしかった。このまま時が止まりはしないかとさえ、強く願っていた。
『何故だ?』
突如大神の中に、この言葉が浮かび、木霊する。
『何故だ?こんなにいとおしいのに』
『君はこんなにも愛しいのに』
『俺は君を・・・・・・』
長い沈黙を破ったその言葉こそ、大神の本心だったのかも知れない。囁いたその声に反応して、すみれがはっと顔を上げ、大神と顔を見合わせる。大神はすみれの瞳を見つめながら、今度はよりはっきりした声で、すみれに思いを告げた。
「俺と二人で神崎に行こう]
「えっ・・・・?」
「僕と二人で・・・君は神崎に、戻るんだ・・・・」
「どうして・・・・・そんな事・・・・」
その言葉を聞き、大神が見下ろしたすみれの瞳がたちまちに潤むと、涙が一粒零れ落ちた。
頬を通りすぎたその涙の流れはとめどなく、頬に添えた大神の掌さえ濡らし、床に落ちた。
その一滴が床を打ち宙に散る音を、大神は確かに聞いた。
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