震えるすみれの頬に手を添え、顎をなぞれば、指先に涙が伝う。 
 大神を見上げる唇が、言葉を捜していた。
 そんなすみれの頭を、大神はそっと抱き寄せた。
 すみれの耳元で、大神の声が囁いた。


 「聞いてほしい・・・・俺にはどうしても、耐えられないんだ・・・・」

 「判ったんだ・・・・・俺は君を離したくない、何処にも離したくない、と・・・・
  君とここで鍛錬を繰り返し、君が鍛え上げられる姿を見る度に、俺は身の切られるような思いをしたよ。
  目標に一歩近づく度に、君は俺の元から一歩、離れていってしまう。
  拳を繰り出しながら、いつも考えていた。『何故だ・・・・?』と、ね。 

  神崎に行こう・・・・
  もし君が合格したとしても、俺達の時間など、設けられるはずが無いんだ。
  訓練期間中、君は俺と会うことなど許されはしないのだから。
  それどころか、君とは二度と会えないかもしれない・・・・そんな可能性も、十分にあるんだ。
  それでは夫婦とは言えない・・・・ 

  何も、心配など要らない・・・・
  君の全ては、俺が必ず守るとも。
  不安など要らない。幸せだけを見つめていよう。
  君は俺の子を産み、二人で家庭を作ろう。

  君もそれを望んでくれるのであれば
  俺達は神崎に、寄り添った方がいい・・・・」


 大神の胸をすみれが突いた。
 するり、とすみれの身体が大神から離れ、うつむいた。
 「その言葉、忘れて下さる約束でしたのに・・・・・」
 涙を拭う仕草も見せず、すみれの視線は床を見ていた。一粒の滴が、吸い込まれるように落ちていく。どこまでも。
 「君の気持は忘れていない」
 大神が、離れてしまった身体に手を差し伸べる。しかしすみれの言葉がそれを制した。
 「身勝手な優しさなど・・・・欲しくはありません」
 「心変りではない。俺は前から・・・・・」
 「私に・・・・私に誓ってくれたあの言葉は、偽りだったのですか・・・・!」
 すみれの瞳が大神を見つめた。語尾に嗚咽が混じり、割れた声が室内に響いた。
 「私を守って下さると・・・・貴方は私を、神崎から守って下さると・・・・・・・!」
 「・・・・嘘じゃない」
 「ならば私に示して下さい・・・・道を。あなたと共に歩ける道を・・・・!」
 「それならばこそ、俺達は神崎に・・・」
 「嫌!」
 すみれが叫んだ。 


 「私は・・・どうしても「私」でありたいのです」

 「神崎に戻れば、私達の未来は如何様にも営む事が出来ましょう。不自由どころか、毎日の贅沢に飽きるほどに。
  しかしそれでは、私達はいずれ変わり果ててしまう・・・・
  神埼と言う名の『魔物』にとり込まれてしまうのです。貴方も、私も・・・・

  神崎などに生まれたばかりに、私はこの名を恨み続けていた。
  同じ世代の子供達が家族と、友達と・・・恋人と・・・・
  楽しそうに歩いている姿が、いつも羨ましく思えてなりませんでした。でも・・・・
  でも一つだけ・・・貴方と出会えた事が・・・・
  貴方とこの場所で出会えたという事が、私の思いを変えたのです。
  神崎に生まれた事を不運とした、私の運命を・・・
 
  貴方はいつかおっしゃいましたね・・・・
  「生きる為の全ては、この手で勝ち取るものだ」と。
  ならば私も、そうありたいのです・・・・

  感じるのです・・・・貴方から受けた、この腕の痣が増える度・・・
  生きている事・・・・自分で道を切り開く事、その喜びを・・・・
  痛みなどありません・・・一歩一歩、貴方と共に道を歩いている喜びを、私は感じるのです。
  そしてこれからも、それを感じていたい。
  貴方と二人・・・二人きりで・・・・

  既に舞台も、捨てました・・・・帝劇も去る事になるでしょう・・・・
  それでも私は歩きたい。私は、闘いたい・・・・!
  そして手に入れたいのです・・・・貴方と生きる日々を・・・・!
  だからお願い。私を信じて、道を指して下さい・・・
  私は貴方を信じて、その道を歩きます・・・・」


 真っ直ぐな瞳が大神を見つめていた。
 その瞳には涙は無く、偽りの無い輝きがあった。
 人の瞳とは、これほどまでに光り輝くのだろうか。大神は思っていた。
 「生きて会えるとは、限らない・・・・」
 大神が言った。
 「生きていれば、もう一度出会えるはず・・・・・」
 すみれが言った。
 「全てを失う必要があるのか・・・?」
 「私は生まれ変る・・・・全てが始まるのはそれから・・・・」
 大神がすみれの手をとった。すみれはその手を、黙って握り返した。
 鍛錬室のがらんとした空間に、微かな、しかし確かな二人の空気が生まれた。
 求め合うように抱き合い、互いの身体に力を込める度、離れかけていた心が再び一つになっていくのが、二人にも判った。
 「すまなかった・・・・・僕は君を、失うとばかりに・・・・」
 その瞬間、すみれの、幾筋にも伝った涙の跡に、新たな涙が伝った。頬に添えられた大神の手が、それを受けとめた。
 熱い涙は大神の心を溶かし、掌に消えた。
 

 長い口付けの後、大神が耳元で囁いた。
 「強くなったな、君は・・・・・」
 胸に顔を埋めたすみれが、それに答える。
 「全ては、貴方が教えてくれた事・・・・」
 二人の思いが、今再び、言葉になってあらわれた。


 「ずっと・・・・ずっとお慕いしておりました・・・・」
 「君を愛している、すみれくん・・・・・君を愛し続ける・・・・・」

    

 一週間後、すみれの花組引退の記者会見が新聞の一面を飾り、その一ヶ月後、すみれの姿が帝劇から消えた。


  

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