翌朝の食卓、目覚めのコーヒーカップは誰の手にも重く感じられた。
 深夜の紅蘭が引き起こした一騒動のおかげで、花組の全員が寝不足なのである。
 「…えみぃ」
 本当なら「眠い」と言いたかったのだろう。あくび交じりでコーヒーを啜っているのはカンナだ。食堂に残っているのはもはや彼女だけだったが、これは別に彼女の食欲が旺盛だったからではない。ただ単に、食堂に顔を出すのが一番最後だったからである。
 「・・・・・ふわぁ〜ぉう」
 殆ど顔全部を口にしての大あくびを連発するカンナの前に、富士を思わせるほどのスクランブルエッグと、それに退けを取らぬ規模のジャーマンポテトの塊が、「でーん」と、効果音付きで並べられた。恐るべきはそれぞれにフランスパンが一本づつ突き刺さっていた事であろう。そしてコーヒーカップと、湯気を立てるコーヒーポット。
 持ってきたのは今朝の料理番であるマリアだ。
 「はい、どうぞ。今日のメニューよ」
 二枚の大皿を置いたマリアが、指についたスクランブルエッグの欠片を舐めながら言った。
 「なんだ…メシじゃないのかよ」
 黄色い山脈を前にして、カンナは眉間に皺をよせた。まぁ、その言葉が終る頃には、カンナの口と手はフランスパンを『真っ二つ』にしていたのだが。
 食べ始めたカンナを見て、マリアは向かい合うようにして椅子に腰を下ろした。マリアの手にも、熱く注がれたコーヒーがあった。二人はそれを一口すすると、ほっとしたように息をついた。カップから昇る湯気がふっと揺らめく。
 「朝だっていうのに、何でこんなに疲れてるのかしら」
 マリアがマリアらしく無い事を言うと、カンナがすかさず言葉を続けた。
 「そりゃアタイも同じよ。アレだろ、紅蘭がやりやがった昨夜のアレ」
 「あら、さすがに気付いてたかしら?」
 マリアが覗き込むような視線を投げる。彼女には珍しい、悪戯っぽい仕草だった。
 「おいおいー、賊だったらぶちのめしてやろうかと思ったぐらいだぜ?そりゃ気付くさ」
 「まぁ、大体の原因は見当がつくんだけど…」 
 「へー、なら話が早いじゃん。いっちょビシっと言ってやれば」
 「今の紅蘭に、誰が『ビシっ』と言ってやれると思う?」
 「んぁー…」
 それまでの会話を止めて、カンナが考え込んだ。その様子を見てマリアが眉をひそめる。
 「…ちょっと、口開いてるわよ。まったく行儀悪い」
 「はんひゃ、もいひゃはふがんはがもが…」
 少なくとも、冒頭の一言は「だって、」と言いたかったらしい。
 「見てられないわね、まったくもう」
 そう言って、マリアはカンナのカップにコーヒーを注ぐ。既に空だったコーヒーカップが、たちまち琥珀色の液体と湯気で満たされた。今日の仕立てはブルーマウンテンだ。
 「サンキュ。ん、んぐ…っと、で、何だっけ?」
 そのブルーマウンテンの名残も残さずに、コーヒーを一気飲みしたカンナがマリアに向き直ると、マリアが再び眉を寄せた。
 「あなたは食に対して「ゆとり」とか「風格」ってものを覚える必要があるわね、多少」
 「ゆとり?…ハラの事か?八文目にも余裕あるぜ?何の話だ?」
 カンナの答えは、どこまでもカンナらしい。
 「そ、そうじゃなくて…まあいいわ」微かにピクつくこめかみを無視しながら、マリアは続けた。「紅蘭の事よ。今のあの子の手綱は、誰にもさばけないでしょうね」
 「ふ〜ん」
 マリアが何を言わんとしているかは、カンナにも大体判っていた。カンナは相づちを打ちながら、すっかり空になってしまった皿を重ねた。そして爪楊枝を探しながら、会話を続ける。マリアも2杯目のコーヒーを自分のカップに注いだ。
 「大神隊長がらみって訳か…やっぱりなぁ」
 「あなたはどう思う?紅蘭のこと」
 カンナはやや視線をそらして考えるそぶりを見せた後、ため息のように言葉を吐き出した。
 「案外器用じゃないんだな。いわゆる『思い込んだらまっしぐら』ってやつか」
 「そうなんでしょうね、きっと」
 マリアは素直に相づちをうった。
 「大体、大神隊長が帝都に居ねえんだからしょうがねえと思うんだけどなぁ?」
 「そうね」
 カンナも二杯目のコーヒーに口を付け、再び一気に飲み干した。そして僅かな沈黙の後、カンナが独り言のように言った。
 「大神隊長は大神隊長、加山隊長は加山隊長。AはA。BはB。AはBじゃない・・・・」
 「・・・・?何よ、それ」
 カンナが珍しく展開した理論に、マリアがすばやく反応した。
 「違うものをどう比べても、どうしようも無いじゃないかってことだよ。結局違うんだからな」
 マリアに、まるで台本の台詞の様に答えた後、カンナは、我ながら不釣合いなこの台詞にとうとう耐え切れなくなったのか、照れ隠しのように笑った。
 だが、マリアはそうはしなかった。マリアは屈託なく笑うカンナの表情を眺めながら、カンナの言葉に疑問を唱えた。
 たしかに加山と大神は違う。姿かたちも。声も。癖も。考えを含む全ての行動も。
 だが違うからこそ、比べてしまうのではないか。
 それが悪いことなのか。
 だから自分は、毎晩泣いて暮らしているのか。
 
 大神隊長。加山隊長。
 マリアはカンナのその言葉を聴く度に、心の奥がしめつけられるような思いに駆られていた。
 加山が赴任して来た日の晩に、マリアは加山に夜の見回りの個所と注意点を教えることになった。だが、その最中のマリアは一度たりとも加山の顔を見ることが出来なかった。その顔が、今ここ居るべき人間の・・・最も居て欲しい人間の・・・それでは無い事に気が付いてしまうからだ。それはマリアにとって、どうしても避けなくてはならない問題でもあった。なぜなら、それに気付いてしまったが最後、耐えきれぬほどの喪失感に襲われながら一夜を過ごす羽目になるからである。大神が姿を消して以来の全ての夜が、ずっとそうであったように。
 紅蘭の様に、素直に憤慨出来ないから。
 紅蘭の様に、大神と最後の夜を過ごす事が出来なかったから。
 せめて遠くから見つめる事で、自分の気持を押さえつけていたから。今はそれが、出来ないから。
 だからマリアは、その日を境にして加山を「隊長」として迎え入れた。一時の「客」として、組織形態を維持するための道具として。そしてその事を自らに言い聞かせるため、マリアは率先して加山の傍に付き、あれやこれやと世話を焼き、仕事も手伝った。片時の忙しさは、大神への想いを妨げるのに十分だった。
 マリアもまた、不器用なのだ。紅蘭と同じか、もしかしてそれ以上に。
 
 「で、その紅蘭は?」
 不意のカンナの声に、マリアは我にかえった。その拍子に手に持っていたカップを落としそうになったが、それをカンナに悟られることはなかった。
 「紅蘭…まだ来ないのよ」
 「へー」 
 「起きてはいるみたいなのよ。声を掛けたら返事があったから」
 「『うるせー!』ってか?」
 マリアは黙って頷いた。
 「…ふーん」
 カンナはそう相づちを打つと、それ以上の興味を示すこともなく、大皿を手に席を立った。
 「あ、いいのよ。洗い物がまだあるから」
 マリアが声をかけたが、カンナはニカッと笑ってそれに答えた。
 「お・か・わ・り♪」 
 二の句を継げずにいるマリアをそのままにして、カンナは厨房へと姿を消した。後に残されたのは、マリアと、まだ十分に熱いコーヒーポット。
 マリアは三杯目のコーヒーを入れながら、いつの間にかクスクスと声を立てて笑っている自分に気づいた。
 隊長が替っても、カンナは相変わらずだった。無論カンナにも、大神に寄せる特別な思いがあったには違いない。でも今は、大神がいた頃と変わらぬカンナの言葉や振る舞いが、マリアにはなぜか嬉しかった。 
 もしかしたら、変らぬように見えるカンナもまた、紅蘭や自分の様に思いつめている部分があるのかもしれない。変らぬように振舞う事で、大神がいないという事実を受け入れようとしているのかもしれない。だが、そこまで考えて、マリアはその考えを止めた。
 それは誰にもわかることではないのだ。多分、カンナ自身にさえも。 
 まだカンナは戻ってこない。漂い始めた香辛料の匂いから察して、どうやら何か作り始めたらしい。カンナが作っているのはまず間違いなく沖縄料理だろうが、マリアは、独特の風味を持つ沖縄料理はあまり得意ではなかった。
 「ありがとうカンナ。後はごゆっくり」
 マリアは満たされたコーヒーカップを手にすると、カンナを待たずに席を立った。
    

 (ばれたかな?)
 (や、わかんないだろー。一応演技はしてみたからな…)
 (でも、マリアだしな…)
 エプロンもせずに厨房に立っているカンナの頭の中では、先ほどからそんな言葉がぐるぐると巡っていた。決して料理が得意ではないカンナだったが、自分が好んで作る沖縄の郷土料理だけは目をつぶってでも完璧に作る事が出来た(もっとも、見栄えを気にしていないというのがその理由だが)。だから、そんな事を考えながらでも、カンナの持つ菜箸とフライパンは見事にその役割を果たしていた。 
 「…ま、いっか」
 バレてたらそれまでだ。それにバレたところで、どうという事はない。それにアイツだって…
 手早く炒めたミミガーを皿に移し、カンナはポツリと呟いた。そしてその時、自分が無意識の内に、丁度一人前のミミガーをフライパンに残している事に気付き、静かに舌打ちを鳴らした。
 カンナが残したその分は、明らかに大神の為のものだった。

 帝劇の時計の針は、もうすぐ10時を刺そうとしていた。

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