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紅蘭は廊下を歩いていた。
気分は大分落ち着いてはいたが、いつも通り──大神がいた頃と同じように、という意味で──と呼ぶには程遠いものだった。
彼女は自室から離れると、地下室へと向かった。右手には愛用の工具箱とサンドイッチを入れた紙袋が、そして左手には例のファイルがある。服装も普段着のチャイナドレスではなく、ところどころに油の染みが浮いた作業着へと変わっていた。
今日は丁度、アイリスとレニの光武を定期点検の日になっていた。
この作業にはさほど時間はかからない。現在の午前10時から始めても、自分の技術力をもってすれば昼食までには楽に終える事が出来る。だが、紅蘭は今回の点検をそれのみに終えるつもりはなかった。昨晩加山に手渡された、いまいましいファイルに指摘されていた個所を実際に自分の目で確かめてみるつもりだった。そして万が一、加山の指摘の通りに不具合が認められた場合は直ちにそれを修正および調整し、比較を含むその結果を上層部に報告しなくてはならない。万が一(紅蘭は頭の中で、この言葉を繰り返し強調した。万が一)そうなったとしたら、その作業は終日かかるか、徹夜になるか。どちらにせよ、食事の暇も無いだろう。サンドイッチはその為の備えだった。
紅蘭は気分の落ち着かない時、工具を手にする事で、それが次第に和らぎ消えて行くのを知っていた。それに費やす時間が長ければ長いほど、効果を長く持続出来るのも知っていた。それは大神が帝劇に現れる以前からの彼女の習慣だった。だから今回もそうするのだ。だが今回はその為の適当な作業が無かった。アイリスとレニ以外の光武の点検は先週までに終わっていたし、各光武の武器の調整は、数日前から花やしきに任せていた。
だから、今日は加山の言うとおりに動いてやる。何でもいいから工具を握っていたい。その理由が欲しい。だからファイルを持ってきた。徹夜作業は望むところだ。どうせ今夜も眠れそうに無い。だからやってやる。サンドイッチまで用意して、しぶしぶやってやるのだ。
何度も経験したはずの自分の習慣を、紅蘭は自分に言い聞かせていた。
地下への階段を一歩踏み出したとき、紅蘭はある言葉を思い出した。それは先ほどサンドイッチを作りに厨房に入った時、偶然聞こえてきたカンナの言葉だった。紅蘭は突如湧き上がってきたその言葉を振り切る思いも含めて、口に出した。
「AはA、BはB、AはBじゃない・・・・」
もう一度言った。ロボットのように無機質な自分の声に紅蘭が気づくことはなかった。
「AはA、BはB、AはBじゃない・・・・」
そしてもう一度言いかけて、紅蘭は唇を噛んだ。
だから認めろと言うのか、あの男を。
フザケるな。認めない。あんな男、絶対に認めるものか。
あんたたちには判るまい、私の気持ちなんか。
その思いは紅蘭の全てだった。今の紅蘭には、それだけで沢山だった。
紅蘭は先を急いだ。
地下室の扉に手を掛けると、見た目に違わない重苦しい音をたててそれは開いた。冷たい空気と共に、オイルと埃のにおいが肺に流れ込んでくる。
紅蘭は地下室の隅々に目を走らせた。九機の光武が聳え立つその光景は、まるで石窟寺院の彫像群を思わせる迫力と頼もしさに満ちていた。電源を投入すれば、この九機の光武は地を駆け天を舞い、託された使命を全力で果たす事が出来るだろう。その使命があれば、の話だが。
はたして、この帝劇が再び対降魔迎撃部隊の本部と成り得る可能性があるのだろうか?
それは、紅蘭が度々思う疑問だった。
黒鬼会との戦い以来、降魔の目撃情報は無い。だからといって、いなくなったという情報も、また無い。
戦いの場を失ってからというもの、光武の居場所も無くなってきた。帝都の平和を守る為の光武であったが、最近では、陸軍の兵器開発担当者等からの注目を集めている。どうやら神崎重工では、戦略兵器としての光武量産計画が持ち上がっているらしいのだ。
平安の世での光武は、もはや「兵器」としての存在でしかない。
ということは、私は今、せっせと「兵器」を整備しているのだろうか?
来るべき時に備えて、人殺しの準備をおこなっているのだろうか?
光武は平和を守る為の、人々を幸せにする為の道具だったのに・・・・
わからない。
これもわからない。
・・・・。
やめよう。これ以上は考えたくも無い。それに、何も考えたくないからここに来たのだ。
紅蘭は彫像達の脇を通りぬけて奥の作業台に向かい、さらに工具を探した。目的の物は全てそこにあった。そして引き返し、仲良く並ぶ青と黄色の機体の前に立った。二体の光武は装甲を地下の照明に鈍く光らせ、紅蘭をやさしく迎え入れた。
「準備ええん?ほな・・・・はじめよか?」
子を愛でる母親のような視線でそう呟くと、紅蘭は手早く装甲を剥がした。一枚、また一枚。
そして数時間後、二体の光武の整備を完璧に終えた紅蘭は、そのことにすら気づかずに加山のファイルを手に取り、表紙を開いた。
紅蘭が「いつもの紅蘭」に戻った瞬間だった。
『ぎゅぃいいいいい!ぎゅぃいいいっ!』
『ガガガッ!』
『ギャッ!!ギッシャアァアアアン!』
突然地下室から響いてきた凄まじい機械音に、それまで音楽室に響いていたレニの歌声は消え、同時に織姫はピアノの手を止めた。
「・・・ったくもー」
織姫は椅子から腰を上げると、入り口付近にある室内灯のスイッチ盤につかつかと歩み寄り、その中の一つのボタンを押した。すると壁の四墨が僅かにスライドし、その隙間から分厚い布地がカーテンの様に出現し、それぞれの壁に沿って広がっていった。布地は音楽室の内側をすっぽりと包み込み、そして動きを止めた。
布地の正体は、簡易型の防音システムだった。
しかし機械音は、収まるどころかさらに勢いを増して聞こえてくるようだ。どうやら床の真下、地下室の天井から一階の床に直接響いてくるらしい。織姫がスイッチ盤の隣で地団太を踏んだ。
「紅蘭のおたんこなす!お陰でレッスンが尻切れトンボでーす!」
ピアノの演奏をいいところで邪魔されてしまった織姫は、その憤慨を隠そうともしない。それに対して、レニの反応は静かなものだ。織姫が防音システムを作動させたのを確認してからは、何事も無かったかのように自分の前に立ててある譜面台に目を向けている。
「まったく、もう少し穏やかに出来ないんデスかねー?」
織姫が、姿の無い紅蘭に悪態を付いた。
「まぁ、整備中だからね・・・」
レニが視線をそのままにして答えた。
「毎日毎日ギュンギュンバリバリどっかんばったん・・・・耳がおかしくなりそうでーす」
「まぁ、紅蘭だからね・・・」
「大事な歌のレッスンの途中なのにー!」
レニは譜面台から目を上げて視線を織姫に移すと、やけに冷静な声で言った。「なら、早く続きを。ボクは気にしないよ」
だが、織姫はレニほどに冷静になることは出来なかった。弾いていたピアノの天板を元に戻すと、鍵盤にも蓋を下ろしてしまったのだ。どうやら完全に水を差された気分になってしまったらしい。
「少し休みましょう、レニ?それとも終わりにしようかしら?どうせ一日中うるさいに決まってるデス」
織姫がそう言ったので、レニも無言でそれに従った。だが、頭の中でフレーズの一部を繰り返しているのだろうか、ピアノの天板に寄りかかるようにして立つレニのつま先は規則的なリズムを刻み、視線は相変わらず五線譜に列なる音符を追っているようだ。
織姫は一旦音楽室を出ると、厨房から一組のティーセットを持ち出してトレイに乗せ、さらに幾つかのお菓子を添えて戻ってきた。
「アールグレイを試してみたの」織姫はそう言うと、受け皿に載せたカップをレニに手渡した。「それとチョコチップ・ブレッドよ」
トレイをピアノの天板に載せ、残ったカップを口に運んだ。ふと見れば、レニもそうしていた。ピアノの天板の上で、およそ場違な立食ティータイムが始まった。
しばらくの間は、二人に会話は無かった。紅茶とチョコチップ・ブレッドを交互に口に運び、存分にその味を楽しんだ(事実、すみれが買い置きしていたこのアールグレイは絶品だった!)。
だがそれも無くなりかけた頃には、二人は地下から響いてくるメタリックな不協和音に耳を澄ませていた。普段であれば、この響き渡る大小様々な機械音は、音楽室という場においては雑音以外の何物でもなかったが、今のレニと織姫にとっては、やや違った印象を与えていた。目を閉じながらそれを聞いていると、計器と図面に目を走らせながら、蒸気部品の調整に悪戦苦闘している紅蘭の姿が浮かんでくるようだった。顔がオイルに汚れても、嬉しそうにして作業を進める紅蘭の姿が。
そしてついに、レニが口を開いた。
「よかったと思わない?」
突然話しかけられた織姫が、さほど驚いた様子も見せずに答えることが出来たのは、おそらく同じことを考えていたからなのだろう。
「そうデスねー」
「やっと、元に戻ったんだよ」
「多分、今だけですけどねー」
「今だけでも、いいじゃない」
「それもそうデスねー」
『ぎゅぎゅっ!ぎゅいいい!』
『ガンッ!ガガンッ!ガンッ!』
二人の言葉はどこまでも少なく、地下からの音は相変わらずやかましい。おそらく、この音は終日続くだろう。もしかしたら、夜半。最悪、明日の明け方まで。
それでいい、と二人は思った。
なぜなら、今までもそうだったからだ。
「でも、防音システムは再考の必要があるね」
「次の予算で絶っっ対!むしり取ってやるデス!」
二人がそう言って、そして二人には珍しく声を上げて笑いあった時、今までとは全く異質の音が音楽室の空気を切り裂いた。
「織姫!」
「わかってまス!」
おそらく地下の紅蘭にも聞こえたであろうその音は、紛れも無く降魔襲来を知らせる警報だった。
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