翔鯨丸のコクピットでは、風組であるかすみ、椿、由里の三人が、かえでの指示に従って翔鯨丸を航行させていた。
 「パイロット、状況を報告せよ」
 かえでの声がコクピットルームに凛と響き、三人がそれに答える。
 「視界良好。全計器類以上ありません」
 「高度三〇〇〇メートルまで全速上昇。」
 「了解。全速上昇。高度三〇〇〇」
 「熱海までの空路を確認できました。天候その他、障害ありません」
 「空路確認。自動操縦に切り替えます」
 普段は事務仕事などに勤しんでいる三人だが、いざ出動ともなればその表情が変わる。その正確で機敏な行動は、普段の彼女達からはおおよそかけ離れたものだった。
 「オート機能、異常ありません。後○:三〇で熱海上空に入ります」
 かすみが指令席に座るかえでを振り返ると、かえでは三人の働きに満足げな笑みを浮かべていた。
 「了解・・・・ご苦労さま。オートの見張りに一人残って。後はあなた達も準備に入って頂戴。私も下がるから」
 「了解しました。お疲れ様です」
 三人はそろってかえでに頭を下げ、コクピットルームを下がるかえでの後姿を見送った。
 

 その頃紅蘭は、光武から降りて隊長室へと続く通路に出ていた。普段の紅蘭ならば、こんな時は出撃前の点検などをしているのが常だが、出発前に聞いたカンナの言葉と、この作戦に対する不安感がしだいに大きくなっていて、一度かえでか加山に話を聞いてもらう必要があると思ったからだった。
 その紅蘭が丁度、花組のメンバーの控え室の前まで差し掛かった時、かえでが歩いているのが見えた。紅蘭はかえでに走り寄ると、胸の内を話し始めた。
 「かえではん、今回の作戦やけど、どうしてもウチら三人だけでやらなアカンのやろか?」
 紅蘭のぶしつけな質問に、かえでは僅かに表情を硬くしたが、彼女は即座に返答した。
 「そういうことね。今作戦のフォワードは、あなた達だけで十分だと思うわ」
 「ウチ、そないに簡単に思えへんのや」
 「緊張してるの?」
 「そんなんとちゃうわ・・・・・全員で出撃しようなんて言わん、でも、マリアはんやないけど、この作戦は軽率すぎると思う。もっと慎重に対処すべきなんやないやろか」
 その紅蘭の切羽詰った態度を見て、かえでの表情が再び変わった。厳しくなったのではない。それは普段の帝劇で見せるような、とても優しい表情だった。そしてかえでは紅蘭の両肩に手を乗せ、母親が子に何かを言い聞かせるように、優しく、はっきりとした口調でこう答えた。
 「今回の作戦、あなたはとてもよくやってくれてるわ。ううん、作戦の事だけじゃない。光武の整備調査の件も、私達の期待に答えようとしてくれたわね」
 「そ、そんな・・・・でもウチの所為で、織姫はんの光武が出撃出来んようになってしもうた」
 紅蘭は突然のほめ言葉に戸惑いながらも、すまなそうに頭を下げた。
 「それも、紅蘭が仕事をしてくれようとしたおかげでしょ?」
 「そやないて!加山はんや!全部アイツの所為や!」
 紅蘭の声が、突然荒いだ。
 「加山君がそうしろって言ったの?」
 「そや。でも・・・・・」
 やりたくなかった。あの男の言う事など、無視したかった。
 紅蘭はよっぽどそう言おうと思ったが、かえでの手前、さすがにそれは止めた。それに紅蘭自身、最終的にはあの仕事を実行に移したのであるから、口に出すのは間違いであるようにも思えた。
 しかし、正直な紅蘭の表情からはそれが伝わってしまったのかもしれない。かえでは諭すような視線で紅蘭に質問を繰り返した。
 「紅蘭、今回の仕事、やりたくなかったの?」
 「・・・・違う、そうやない」
 「じゃぁ、どうしたの?加山君が嫌いなの?」
 紅蘭は答えない。その代わり、視線を下に向けたまま、歯を噛み締めて言葉を堪えているようだった。しかし、かえでが紅蘭の体を腕に抱いた時、紅蘭は、それまでずっと耐えに耐えていた言葉を漏らした。
 「ウチ・・・・・もう嫌なんや」
 「何が嫌なの?」
 「加山はんが、帝劇におるんが・・・・・大神はんが、帝劇におらんのが」
 その言葉を聞いたかえでは、優しく紅蘭の髪を撫でた。寝癖だらけのおさげ髪が、小さく震えていた。
 「偉いわ紅蘭。ずっと、我慢してたのね」
 「・・・・・」
 「大神君がいなくなって、さびしかったのね」
 返事はなかった。ただ、かえでの腕の中で、紅蘭の三つ編みが何度も上下した。
 「でもね、聞いて紅蘭」かえでは紅蘭の顔を起こし、眼鏡の奥で濡れている瞳を見つめた。「今は、私達が出来ることをやりましょう。私が出来る事、貴方が出来る事・・・・みんなで出来る事をね」
 「・・・・・」
 「私も、大神君が帝劇に居ないのは寂しいわ。私だけじゃない、支配人も、かすみ達も・・・・・フントも。それに、帝劇に来てくれるお客さん達も、『あのモギリ野郎が居なくなtって寂しい』って言ってるわ」
 「そうなんや・・・・・」
 紅蘭は下がった眼鏡を上げながら、人差し指で目頭を拭った。
 「でもね、私達は、たとえ大神君が居なくても花組なの。その自覚をもって、作戦に望まなくてはならないのよ。帝都の為に・・・・・あなたが愛する人の為に・・・・・自分が今何が出来るのか、それを常に考えながらね」
 「今のウチに、それが出来るやろか?」
 不安げに紅蘭が呟く。
 「出来るわよ!紅蘭ならなら絶対出来る。だって、大神君はそんな紅蘭が好きだったんだもの。そうでしょう?」
 「な!?なんや、かえではん、そんな事イキナリ;;;;;」
 紅蘭は慌ててかえでの体から離れると、真っ赤になって俯いた。
 もう、大丈夫だろう。
 紅蘭のその様子を見て、かえではそう思い始めていた。
  

 「じゃあ、私はコクピットに戻るからね?」
 かえでがそう言うと、紅蘭は真っ直ぐに頷いた。そんな紅蘭に、かえでは振り返りながら、一言付け加えた。
 「そうそう、加山君のことだけど─」
 とたんに紅蘭の表情が硬くなったが、かえでは気にせずに言葉を続けた。
 「あの人今眠ってるから、起こしちゃダメよ?」
 「寝てる?こんな時に?何考えとんのやアイツ!」
 紅蘭は、たった今まで自分が泣いていた事も棚に上げて憤慨し始めた。しかし、かえではそんな紅蘭に何も言わなかった。ただ、早く控え室に入って休んでおくようにとだけ言って、かえではそのまま姿を消した。
 そのときかえでは思っていた。語らずとも、全てはいずれ分る事。そして今の紅蘭にはそれが出来る、と。

 

 控え室に入ると、そこには花組の全員がそろっていた。彼女達の手には、それぞれに渡された炊き出しのおにぎりがある。
 「あら、紅蘭」
 「おう紅蘭、遅かったじゃねえか。お前の分とっといてやったゼ」
 何人かが遅れてきた紅蘭に声を掛け、カンナが紙皿に乗ったおにぎりを紅蘭に差し出した。
 「・・・・うん、かえではんとちょっとな」
 紅蘭はそう言って、笑って見せた。自分がいつも通り笑えているのかは分らなかったが、今の紅蘭にはそれ以上の気遣いをする余裕も無かった。
 かえでさんには本当の事が言えた。でも加山隊長のことだけは、まだわだかまりがある。
 でも、この作戦が終わるまでは、それも忘れておこう。私は、花組の隊員なのだから。
 紅蘭はそう考えながら、おにぎりを口に運んでいた。黙々と食を進める紅蘭に、誰かが何かを言おうとしたが、結局誰も何も言えなかった。紅蘭が何を考えているかは、その場にいる殆どのメンバーが理解していたし、今更それについて、しかもこの場で言う事も無いだろうと判断したからだった。そして何より、その場にいる殆どの人間が、同じ事を考えていたからだった。
 「皆で食べると、おにぎりでも美味しいねぇ!」
 唯一、アイリスだけがそう言って笑い、ようやく皆も笑ったのだった。
 『翔鯨丸、後5分で熱海上空に入ります。搭乗員は速やかに持ち場に着き、任務を継続してください』
 壁に取り付けられた拡声器から、椿のアナウンスが響き渡る。
 「よっしゃ、行くか紅蘭!」
 カンナが一番に立ち上がり、自分の手のひらに拳を打つ。おにぎりで腹ごしらえも済んだのか、その闘志は充実しているようだ。やがて全員がそれに続き、隊員達はそれぞれの持ち場へと散っていった。
 「紅蘭、私も行くわ。あなたも早くしてね」マリアが全員の紙皿を片付けながら言った。「加山さんもじきに起きるでしょうから、光武に入って指示を待ってて頂戴」
 紅蘭は最後の一欠けらを口に放り込みながら、それでも加山に対する不満を散らした。
 「アイツ寝とるんやと!まったくフザケた野郎やで!」
 「・・・・・紅蘭、そんな風に言わないで」
 悪態を付く紅蘭の耳に、マリアの声が響く。その声は鋭く尖っていた。紅蘭はやや悪意を込めて、やりかえした。
 「何やマリアはん、アイツの肩持つんか?」
 全ての片づけを終えたマリアは、佇まいを治しながら紅蘭の方へ真っ直ぐ向き直った。
 「違うわ。あの人はね、あなたに渡したファイルを作るためにこの数日間は殆ど寝ていなかったの。あれは紅蘭にしか出来ない仕事だからって言って、作業を依頼するからには完全なレポートが必要だからって。毎日、毎日徹夜してたのよ。あの人はあなたの為にそうしてたのよ。それに、今あなたが食べたおにぎりだって、全部加山さんが作ってくれたのよ。私達の為にって」
 それだけ言ってマリアは、紅蘭の言葉を待たずに外へ出た。後には紅蘭だけが残された。
 「・・・・・ふうん」
 指先に付いた米粒を舐め取りながら、紅蘭もまた、持ち場である光武のカタパルトへと戻っていった。
 口の中は米粒の味しかしなかったが、紅蘭の心の中では、紅蘭自身も気づかぬうちに、それまでとは違う感情が芽生え始めていた。

back/to next