「それ」は気付き始めていた。自分自身の体内に訪れた変化に、自我を取り戻しつつあった。
 「それ」に下されていた最も新しい命令は、長い間「それ」にとって意味を持っていはいなかった。この地に下され、そして主を失って以来数百の夜を過ごしてきていたが、その間に新しい命令が下される事はなかった。
 よって、「それ」はある時期から自らの体を意識ごと沈黙させる事にた。そうすれば自らの体にいささかの労を与えずとも、無限の時を越えられることを「それ」は本能で知っていたのである。いや、本能という認識の仕方は正しくない。「それ」の行動が何によって判断、制御されているのかを強いて言うとするならば、ただ唯一事柄のみが、演算機にインプットされた項目の様に存在しているだけなのだ。
 だが、たった今、「それ」は今まで眠り続けていた感覚器を目覚めさせ、研ぎ澄ませた。長い間折りたたんでいた触覚を震わせると、空気を振るわせる音が伝わってきた。地を揺らすまばらな足音が。
 だが、振動によって「それ」が目覚めたのではなかった。今この瞬間まで、「それ」はあらゆる危険を無視し続けてきた。地震や風などの自然現象程度では、「それ」が目覚めようとする事はなかった。「それ」に自己を取り戻させたものとは、三つの足音の主から発せられる波動にあった。その波動は、かつての主が根絶やしにせんと目論んだものに相違なかった。
 (ドクン・・・・ドクン・・・・ドクン・・・・・)
 凍っていた体液が、硬く鎧のような皮膚の下を流れ始める。外皮が覆っていない首筋には稲妻のような筋が浮き立っており、「それ」が紛れもない生命体である事を、雄弁に物語っていた。
 人ではない。
 かつての人間達の怨念が具現化し、地底深くで産み落とされた邪悪な怪。
 幾多の歴史の中で常に人間を脅かし続けた、帝都に巣食う地獄の使い魔。
 ほぼ完全に自我と意識を取り戻した「それ」は、今や自分が偉大なる降魔である事にさえ気付いていた。
 (彼らを待ち伏せ、彼らを殲滅せよ)
 降魔は己に下されていた命令を確認するかのように、ゆっくりと呼吸を繰り返した。


 先頭を切って歩を進めていたカンナが、足を止めた。その雰囲気を感じ取って、他の二人も例に習う。
 「ブリッジ、聞こえるか?加山隊長?」カンナはマイクに向かって、まるで「それ」に声を聞かれる危険を恐れるかのように、しごく小さな声で囁いた。「目標を発見した」
 翔鯨丸のモニターに、ズームされた「それ」が映し出された。その場の誰もが見間違えるはずも無く、それは降魔そのものの姿だった。ただ、ピクリとも動く事もせずにいることだけを除いては。降魔はうつ伏せに体を丸め、まるで動物が休息する時に見せる姿のように、背中の羽根を折りたたんでその場にうずくまっている。小さくすくめた腕の先、長く鋭い爪が禍々しい。
 「アレがそうだろ?間違いないか?」 
 「そうだ」
 カンナの声を、加山は即座に肯定した。三人にとって、その短い言葉は作戦開始を意味するに十分なものだった。
 まずアイリスが紅蘭のバックパックから長い鉄鎖を引っ張り出し、枝分かれしている部分をフックで繋ぎ合わせた。翔鯨丸に待機してあるカーゴと同じく、夢組によって特殊な呪文が刻み込まれた鉄鎖は、瞬く間に巨大なネットに姿を変え、即席の結界となった。そして一端をカンナが、もう一方をアイリスが、そして後部を紅蘭が持つ姿勢を作り、先程よりも慎重に降魔に向かって歩を進めていく。結界となった鉄鎖で降魔を拘束し、洞窟から引っ張り出すという作戦だった。鎖に込められた印は、妖力を封じる効果を持っていた。仮に降魔が結界の中で目覚めたとしても、その印によって外に出る事は出来ぬのだ。
 「準備いいな?」
 「了解や」
 「いいよ。OK」
 三人は互いに声を交わし、結界を降魔の上から被せた。巧みにネットを操作し、降魔の体を静かに転がし結界の中に押し込で、降魔を完全に包み込んだ。そしてネットの周囲を互いに繋ぎ合わせ、ふろしきで降魔を包んだような形を作ると、ネットの集合部に大掛かりなロックを仕掛けて完全に封印した。そのロックにも呪文が刻まれている事は言うまでも無いだろう。
 三人は慎重かつ順調に作業をこなし、作戦は容易に終了したかに見えた。だが、降魔を結界の中に押し込む時、動かぬ降魔が僅かに体重を移動させて自ら結界の中に移動した事になど、誰も気づいてはいなかった。


 カンナのカメラから送られてくる映像を見ながら、加山は満足げな表情を浮かべていた。それは、訓練ですら経験する事の無かった異例の任務を、即席の出撃チームが見事にやってのけたからに相違なかった。映像の中での三機は、見事に打ち合わせどおりの動きを見せいていたのだった。
 後の数分間を三人が上手くやってくれさえすれば、後は洞窟の中を戻り、降魔をカーゴに押し込んで収容すれば作戦は終了である。加山は背後に立つかえでの様子を横目で伺った。チラリと盗み見るつもりが、うかつにも目が合ってしまった。しかしかえではブリッジの壁面に背を押し付け、両腕を組んだまま何も言おうとはしなかった。加山に指揮を任せてから、かえではずっとその姿勢のままモニターを見つめ続けていたのだった。副指令の名に相応しく、それは凛とした姿だった。
 「加山君」かえでは加山を呼んだ。視線はモニターに向けられたままだ。「あの降魔、データに無い種類だわ」
 そうだろうか?加山は言われるままにモニターを見直した。だが今の画面からでは降魔の背中が見えるだけで、他の降魔と比較できるような特徴は見る事が出来なかった。
 「副指令・・・確かですか?」
 「いえ・・・・どうしてかしら。他の降魔とは印象が違うような・・・・」
 「本当ですか?」
 そう言った加山の言葉のニュアンスには、少々の棘があった。順調に進んでいた作戦は、今や終わろうとしている。この時点で加山以外の人間が何かを発言するという事は、順調に終わろうとしている作戦を中断させる事に他ならない。今の加山には避けたい選択肢だった。そういった心境が、加山の言葉に棘を持たせたのだった。
 「まぁ、収容すれば判りますよ」加山はかえでの姿も見ずに答えた。「ブリッジよりカーゴ班へ。マリア、聞こえるか?」
 インカムを通して、加山が出撃ハッチに控えているメンバーを呼び出そうとしたその時である。もはや視界の隅に追いやられていたメインモニターの、その中央に映し出されている降魔の目が光った。加山がインカムのスイッチを切り替えるよりも早く、けたたましいアイリスの悲鳴がスピーカーから響いた。
 「ど、動態反応!?」
 一瞬遅れて椿が発した警告は、もはや誰の耳にも入ってはいなかった。既にモニターには、結界の中でザワザワと体を動かしている降魔の映像が映し出されていたのだ。
 「う、動きよったでコイツ!」
 紅蘭から、裏返った声で報告してくる。作業の終わった今、ロックから延びる鎖を握っているのは彼女一人だった。
 結界の中の降魔の動きは、それ程激しいものではない。まるで自分の置かれている状況を確認するかのように、静かに周囲を見回している。
 「落ち着け!ヤツが結界に入っていれば問題ない!外に出てくる事は無いっ!」
 「そうだぜ紅蘭、この結界はそうそう破られるもんじゃねぇ」
 カンナが落ち着き払った声で、しかしすぐに拳を叩き込めるように拳を構えながら言う。
 だが、その言葉は次の瞬間で覆された。
 結界であるネットの隙間から降魔の右腕が凄まじい速さで伸びたかと思うと、降魔の正面に立っていたカンナ機の左腕を掴んだ。突然の出来事に、カンナの反応はほんの一瞬だが、確実に遅れていた。なぎ払おうと振り上げた右腕さえも拘束されると、全く身動きが出来なくなった。
 「な、なんなんだぁこの野郎はっ!?」
 正面から両腕を押さえつけられながら、カンナが悪態を吐く。ある意味で唯一の武装といってもいい結界は、いまや完全に無力だった。降魔の腕には次第に力が込められ、左右に絡みついた5本の指が徐々にカンナ機の装甲を変形させ、めり込んでいく。特殊シルスウス鋼が飴細工のように形を変えていく様に、ブリッジの空気は凍りついた。
 「なんなんだコイツは!結界の中にいるのにっ!」
 「カンナ!直ちに離脱しろ!振りほどけ!」
 「助けてくれっ!・・・・力が・・・・力が出ないんだっ!ちくしょうっ!?」
 まるでカンナの声ではないような、恐怖に怯えたような声がスピーカーから返ってくる。しかしその答えを持っている者は誰もいなかった。その代わり、椿がカンナに訪れつつある最悪の事態に気づいた。
 「カンナ機に異常発生!」
 その異常な声の響きに、加山が即座に反応する。
 「どうしたっ!?」
 「霊力が・・・・霊力が下がっています!」
 「なにっ!?」
 「霊力計に表示されている全ての霊力値が下がってるんです!パイロットの霊力もです!・・・・・・再び低下、基準値より-25%!」
 その声にオーバーラップするようにして、今度は由里が叫んだ。
 「なんなのよ、これ・・・!」
 「由里、報告しろ!」
 「降魔の・・・・・結界内の降魔の妖力が上がっているんです!」由里の声は絶叫に近かった。「カンナ機の霊力低下に比例するようにして、降魔の妖力が上がってるんですっ!」
 信じられない由里の言葉に、加山はようやく全てを悟り、成す術なく奥歯を噛み締めた。そして次に加山が漏らした言葉は、今までに幾度と無く降魔と闘ってきた隊員達の心臓を凍りつかせるのに十分だった。
 「・・・・・霊力を・・・・喰っていやがるんだ・・・・」
 呻くような加山の声がインカムから聞こえた時、皆耳を疑った。しかし、加山の声以外に聞こえてくるのカンナの悲鳴が、その推測に疑いようの無い説得力を与えていた。
 「うぁああああっ!た・・・・助けてくれ・・・・!っうわあぁあああああっ!!」
 カンナの悲鳴は止まらなかった。まるで霊力計の針が完全に0を指すまで止まらぬのではないかと、そんな最悪の状況さえもが容易にに想像出来る程、彼女の悲鳴は絶望的だった。
 

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