大神がティーカップを口に運ぶ。
 しかしそれは既に冷め切っていて、ほんのりとした甘味のでは無く強い渋みだけが口に残った。カップを傾ける度に底に溶け残っていたマーマレードが緩やかな残像を描き、そして溶けた。 
  
  
 その日から、私の中で何かが・・・欠けていったような気がします。
 私は孤児として町の教会が運営する施設に入り、そこで生活することを余儀なくされました。しかし数週間後には、私はその施設を抜け出していました。何故・・・かはわかりません。少なくともそのときは、当局や体制に対する復讐とか、憎悪といったようなことではなかったと思います。ただ・・・

 死ぬことが・・・命を失うことが恐怖では無くなっていたのは確かです。

 夜に抜け出し、当てもなく街をさ迷い歩いた私は、気がつくと自分の家の前に立っていました。しかし私の前に建っていた「もの」は、既に私の家ではありませんでした。家族の代わりに私を出迎えたのは、簡素な立て札に殴り書きされた「売り家」の看板。私はその看板の脇をすり抜けると、あの夜のままに破れた玄関のドアを押しました。ドアはわずかな軋みを見せながらも何のためらいもなく私を迎え入れました。
 荒れ果てたリビングは、かつてそうだった事を思い出させることもなく、あの夜の状態のまま放置されていました。壁紙はボロボロ、破れた窓から入り込んだのでしょうか、床は落ち葉に埋められていました。
 (これが私の家だったのだろうか?)
 しかし、その落ち葉でさえ隠すことの出来ない父の流した夥しい血痕によって、ここが私の家であることは否定できなくなっていました。
 私はその血痕の脇を通り過ぎると、二階へと向かう階段を上り始めました。二階には私の部屋があったのです。

 「やあ、君か」
 その他は何の異常も有りませんでした。恐る恐るドアを開けると、子供部屋だということで当局の連中も見逃したのでしょうか、この部屋だけは、私がここを離れたときのままの状態で残っていました。寝ていたベッドの上には脱ぎっぱなしのパジャマがあり、壁に釣られた小さな棚にはテディベアと父の写真・・・・母は写真嫌いな人で・・・それに私の書いた家族の絵。そんなものまでが元のままの姿で私の前に広がっていました。
 「これ、君のお父さんだね。よく似てるからすぐ判るよ」
 私はベッドの脇を過ぎ、背丈ほどもある大きな椅子が備えられた勉強机に座りました。その机は元々父が使っていたものでしたが、引出しが多くついていたことを気に入った私が駄々をこねて父から奪い上げた物でした。でもまだ小さかった私がその机に座っても、そのままの姿勢では本棚の本にさえ手が届かなかった位に大きな机だったので、私自身使ったことが無かったんですが、何せ引き出しが多くて・・・引出しをいっぱいまで開けておいて、それを人形の家の様にして遊んだものでした。
 「タチバナさん・・・・君のお父さんだけじゃない、彼以外にもあの夜は─」
 「あなた誰?」
 「─大勢の同士が摘発され、そして殺された。捕まった者もいたが、その殆どが連中に取調べを受ける前に自害したらしい」
 「誰?」
 私はどうしても無視することが出来なくなり、部屋に入った瞬間から聞こえていた声の主に視線を向けました。
 「僕かい?僕はタチバナさんの下で働いていた者さ。もっとも僕は出来の良い方じゃないから、外交官じゃないけどね」
 あの夜を生き残ったレジスタンスの一人でした。その男はまだ若く、しかし私とはかなり離れているようで、年の頃にしたらその時で18,9だったのでしょうか、すらりと背の高いのが目立つ若者でした。
 「どうしてここにいるの?」
 「・・・君こそどうしてここにいるんだい?」
 「だって、私の家だもの・・・だったんだもの。だから私はいて良いの。あなたがいるのがおかしいの」
 「そうか・・・まぁ、確かにそうだな」
 彼はいささか決まり悪そうに鼻の頭をカリカリと掻き、再び私に視線を向けました。
 「だからあなたはどうしてここにいるの?」
 私は再び彼に質問を浴びせ、その声にあからさまな苛立ちが込められていることに自分でも驚きました。そしてそれはそのときの私にとって、久しぶりに取り戻した「感情」だったのかも知れません。
 しかし壁に背を預けていたままの彼が私の質問に答えたのは、それから暫く経ってからのことでした。
 「彼・・・君のお父さんは僕らの一員だったことは知ってるね?」
 私は黙って頷きました。彼はそれを確認してから、更に話を続けました。
 「彼は僕らにとって只の隠れ蓑だったわけじゃない。彼は既に我々と未来を共にするはずの同志だった。実は彼はこの町に駐在する以前から我々の思想に共感し、そして共に活動してきたんだ。
  ある日、丁度あの夜と同じ様な『ガサ入れ』が行われ、俺達は本部でその直撃を受けた。狭い部屋ので銃弾が飛び交い、すぐ隣にいる仲間が、さっきまで笑って話していた奴らが、次々に死んでいった。俺達は生き残った仲間を何とか援護しながらその逃げ道を作り出し・・・・最後には俺とタチバナさんが残った。仲間は無事に送り出したはいいが、俺達は目の前にいる連中をけん制しきることが出来なくなってしまったんだ」
 彼はそこまで一気に話すと、私のベッドに腰を下ろし、再び話し始めました。
 「そしてあの人はとんでもないことを言い出した。まず奴らが完全に逃げ道をふさいでしまわない内に二人で外に抜け出し、わざと発見させる。そしてその時に俺がタチバナさんを「人質」として扱い、俺一人分の逃げ道を確保した後、自分は当局の連中に「保護」してもらうのだという。今まで一発も発砲せずに身を潜めていた彼自らを利用した、ズバ抜けた作戦だ。
 そして俺は彼の指示どおりに彼を道に連れ出すと、その場の通行人を利用したかの用に彼を盾にして銃を構た。それから彼は俺に撃つように・・・タチバナさんを撃つように俺に言ったんだ。何故なら奴らは、俺達を見つけた時点で既に彼の事を疑い始めていたからだ。だから俺は彼を引き渡す時、背中から彼の脇腹と足を撃ち抜いた。
 彼はその事に時間稼ぎの意味も込めていたのかもしれない。突然の出来事に浮き足立った連中を尻目にして俺は逃げ仰せ、タチバナさんは事件に巻き込まれた被害者として病院に運ばれた。もっとも俺がそれを知ったのは次の日の新聞を読んだからだけれどね。
 俺は君のおとうさんに命を救われたようなもんなんだ。あの時俺一人だったら、いや、彼以外の人間と行動していたとしたら・・・俺の命は無かっただろう。」
 
 彼が喋り終わった後、沈黙が私達を包みました。
 私はその沈黙の中で、彼の瞳をじっと見つめ続けました。
 少し青みの入った、グレイの瞳。父とは全く違う瞳。
 それでも、父と同じ輝きを持つ・・・志に支えられ、燃えるほどの情熱の込められた視線。
 いつのまにか、私は引き込まれるようにして彼の瞳を見つづけていました。
 「俺は」長い沈黙が突然破られたので、私は少々ドキリとしました。「君のお父さんが残したものを取りにここに来た」
   
   
 玄関の方で物音がしました。そしてガタガタとその場に在る物を移動させる物音。私は椅子から飛び降り、殆ど反射的に彼の足元へ走り寄りました。ガタリ、ガタリ。音は次第に大きくなり、数も増えているようでした。人の話す声。階段を上ってくる数人の足音。
 「君は逃げろ」
 状況を判断したのでしょうか、彼はその表情を一変させると私にそう小さく言い放ちました。彼は素早く上着のポケットからナイフを取り出すと、それを床に突き立てて数枚の床板を引き剥がしたのです。その一連の動きには僅かな音も無く、私は彼のその動きと、彼がその内側から取り出したものをじっと見ているばかりでした。
 切り取られた漆喰の中から彼が取り出したのは、台尻を切り詰めた散弾銃と数丁の拳銃、そして夥しい数の弾丸でした。父はいずれ自分の身に危険が及ぶことを感じて、私や母の気づかぬ内にあのようなものを私の部屋に隠していたのでしょう。そして父が手にすることも無く眠らせていたそれらのものを、今ここにいる一人の若者が、いずれその志を遂げるために役立ててくれることを信じて、彼にこの家を教えたに違いない・・・私は星明りに鈍く光る銃身を眺めながら、そう確信していました。
 

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